生涯
- 李威、字は伯龍、漢陽の人、苟太后の従姉妹の子。若くして魏王雄と親しく刎頸の交わりを結んだ。苻生がしばしば堅を殺そうとした際、威の周旋によって難を免れたため、堅はこれに深く感謝し父のように仕えた。堅の即位後、威を左僕射とした。威は苟太后の寵愛を受け、当初、生を弑逆した謀や堅の兄清河公法の誅殺は、いずれも威と太后が密かに決したものであった。威は王猛の賢才を重んじ、堅に国事を任せるよう勧めた。堅はかつて猛に「李公がそなたを知るのは、鮑叔が管夷吾を知り、罕虎が子産を知ったようなものだ」と語り、猛は威を兄のように敬った。
- 威は護軍を領し建寧侯に封ぜられた。匈奴の石賢王曹轂が秦に叛き二万の衆で杏城を侵略すると、堅は自ら討伐に赴き、威を衛大将軍として王猛と共に太子宏を輔け長安を守らせた。この時、征北将軍淮南公幼が杏城の兵を率いて虚に乗じ襲撃してきたが、威はこれを撃ち斬った。堅は帰還後、その功により太尉を拝命させ、まもなく侍中を加えられた。建元十年(374年)に没し、諡を烈公とした。
- 当初、苟太后は若くして未亡人となり、威は太后の寵愛を受け、史官はこれを記録していた。威の没後、堅は起居注と著作の記録を取り寄せてこれを見て、その事を知ると深く恥じ、その書を焼いて史官を大々的に取り調べ罪に問おうとしたが、著作郎趙泉・車敬らがすでに死んでいたため取りやめた。