十六国春秋前秦錄十 鄧羗

王猛との衝突と信頼

  • 鄧羌、安定の人。驍勇で騎射を善くした。生の代には建節将軍であったが、生はしばしばこれを殺そうとしながらもその雄武を惜しんで行咸陽太守として出した。堅の即位後、驍騎将軍・領御史中丞に遷った。羌は剛直で節を曲げず、王猛と志を同じくし悪を憎み糾弾に容赦がなかったため、権貴は身を慎み奸猾な者は息をひそめた。まもなく尚書に進み、再び建節将軍として李儼を討ち平定した功で建武将軍・洛州刺史に遷った。
  • 王猛が燕を討伐した際、軍を潞川に進め将軍徐成に燕軍の情勢を偵察させ日中に戻るよう期していたが期日に遅れ、斬罪に処されるところを羌が「今、敵は多く我は少ない、明朝には戦になる、成は大将です、しばらく赦すべきです」と諫めた。猛が「もし成を殺さなければ軍法が立たない」と応じると、羌はなおも「成は私の部将です、私が成と共に戦って功を立てそれで罪を贖わせてほしい」と願い出たが猛は許さなかった。羌は怒って陣営に戻り鼓を鳴らし兵を整え猛を攻めようとしたため、猛がその理由を問うと、羌は「詔を奉じて遠くの賊を討とうとしているのに、今、身近に賊がいて互いに殺し合おうとしている、まずこれを除こうと思う」と答えた。猛は羌が義に篤く勇敢であることを見抜き、使者を送って赦免を伝えさせた。成が赦されると羌は猛のもとへ謝りに行き、猛はその手を取って「私はただ将軍を試しただけだ、将軍が部将のためにこれほど尽くすのなら、まして国家のためにはなおさらだろう、私はもう賊のことを心配しなくてよい」と語った。

燕討伐と司隷校尉を巡る駆け引き

  • 猛は渭源に陣を布き将士を厳しく誓わせた。燕軍は非常に盛んで、猛はこれを望み見て憂慮し羌に奮起を促すと、羌は「もし司隷(校尉の職)を私に与えてくださるなら、憂うるには及びません」と応じた。猛は「これは私の権限の及ぶところではない、必ず安定太守・万戸侯の地位で処遇しよう」と答えたが、羌は不満げに退いた。まもなく両軍が交戦すると、猛が羌を召しても羌は寝たまま応じず、猛が自ら馳せて司隷校尉の約束をすると、羌はようやく帳中で大いに酒を飲み、徐成と共に評(慕容評)の軍へ突撃、将を斬り旗を奪い殺傷は甚だしく、燕軍は大敗した。長駆して鄴に至りこれを陥落させ、使持節・征虜将軍・散騎常侍・安定太守・食邑三千戸・真定侯に進んだ。
  • 猛は潞川の功により羌を司隷に任じるよう求めたが、堅は「司隷校尉は王畿を統べる重職で、名将を吏事に煩わせるべきではない、羌には廉頗・李牧の才があり、朕はまさに征伐の事を委ねようとしている」と詔を下し、鎮軍将軍・特進に進めた。のちに行唐公洛の征伐に従い功を立て、并州刺史・陽平国常侍に遷った。巴の異民族が乱を起こすと、鎮軍将軍・領護羌校尉として甲士五千でこれを討ち益州を平定、岷山に功績を刻んで軍を振るわせ帰った。堅は東堂で引見し「将軍の先祖仲華(鄧禹)は前代に漢の世祖(光武帝)に出会い、将軍もまた後代に朕に出会った、鄧氏はなんと幸運の多いことか」と語ると、羌は「私はいつも光武帝が仲華に出会ったのは、仲華だけの幸運ではないと思っておりました」と答え、堅は笑って「将軍はこれを自らになぞらえているのだな、これは将軍だけの幸いではなく、朕が賢者に出会った幸いでもある」と応じ、車騎将軍・并州刺史に進めた。

子・翼の忠義

  • 羌には数人の子があり、いずれも義烈で知られた。末子の翼は河間相となり、慕容垂が鄴を包囲した際、翼を後軍将軍・冀州刺史・真定侯としたが、翼は使者に涙して「亡き父は秦室に忠を尽くしました、私がどうして先んじて叛けましょうか、忠臣は二君に仕えずというのは古来の通義、承ることはできません」と述べた。垂が再び使者を送り「私と車騎(羌)とは義兄弟の契りを結んだ、そなたも我が子弟のようなもの、どうして辞退できようか」と伝えると、翼は「冀州は親賢の者が任じられるべきです、私は他の役目で忠誠を尽くしたい」と答え、垂は建武将軍・河間太守とし、尚書左丞にも任じられいずれも高い評判を得た。趙郡内史として没した。