十六国春秋前秦錄十 王猛

出自と隠棲

  • 王猛、字は景略、北海劇の人。魏郡に家を構えた。若くして貧賎で箕(もっこ)を売ることを生業とした。かつて洛陽で箕を売った際、ある人が高値で買い取ろうとしながら代金を持たず、「家はここから遠くない、私についてくれば代金を渡そう」と言った。猛はその高値に惹かれてついて行くと、いつの間にか遠くまで進み深山に至った。その人は猛を木の下に留め、先に案内を告げに行くと言った。まもなく猛が進むと、ある老人が胡床に座り鬚髪はことごとく白く、侍従が十数人いた。その中の一人が猛を「大司馬、お進みください」と導いた。猛は進んで老人に拝礼すると、老人は「王公がなぜ拝礼するのか」と言い、箕の代金を十倍にして支払わせ人を遣わして送らせた。外に出て振り返ると、そこは嵩高山であった。
  • 猛は容姿が優れ博学で兵書を好み、謹厳で気度は雄大遠大、些細な事に心を煩わされることなく俗事に迎合せず、交際を持たなかった。そのため浮華な士人たちはみなこれを軽んじて嘲笑ったが、猛は悠然として意に介さなかった。若い頃、鄴都に遊学した際、人々は彼を知る者がなかったが、高平の徐統だけがこれを見て非凡さを認め功曹に召そうとしたが、猛は隠れて応じず華山に隠棲し、世を輔ける志を抱きながら真の主君を待ち、翼を収めて時機を待ち風雲に乗じて動こうとした。

桓温との対面と苻堅への出仕

  • 桓温が関中に入った際、猛は褐衣のまま訪ね、一度会って当世の事を論じ、虱を捕まえながら語り傍らに人もいないかのように振る舞った。温はこれを観察して非凡さを認め「私は天子の命を奉じ精鋭十万を率い義によって逆賊を討ち百姓のために残賊を除こうとしているのに、三秦の豪傑でまだ来る者がいないのはなぜか」と問うと、猛は「公は数千里を遠しとせず賊の境に深く入りながら、長安を目前にして灞水を渡ろうとしない、百姓はまだ公の本心を見ていないからです」と答えた。温は黙り込んで答えられなかった。帰還に際し猛に車馬を賜り高官を授けようとし共に南へ行くよう請うたが、猛は山へ戻って師に相談すると、師は「そなたと桓温はどうして並び立てようか、ここにいても富貴になれるのに、なぜ遠く行く必要があるのか」と述べ、猛はこれをやめた。
  • 苻堅が大志を抱くようになると猛の名を聞き、呂婆楼に招かせた。一見して旧知のように語り合い、廃立の大事についても意見が一致し、まるで劉玄徳が孔明に出会ったようであった。堅の即位後、猛を中書侍郎とした。当時、始平には枋頭から西へ帰った人々が多く、豪族が横行し盗賊が横行していたため、始平令に転じた。猛は着任するや法を明らかにし刑を厳しくし、善悪を見極め豪強を取り締まり、ある小役人を鞭打って殺した。百姓がこれを訴え有司が弾劾すると檻車で召還され廷尉の獄に下された。堅が自ら「政の要諦は徳化が第一なのに、着任間もなく殺戮が数え切れないとは、あまりに酷ではないか」と問うと、猛は「私が聞くところでは、宰相は国を安んずるには礼をもって、乱国を治めるには法をもってすると申します、陛下は私の不才を顧みず激務の地を任せてくださいました、謹んで明君のために凶猾を除こうとしたまでのこと、姦悪を一人殺したに過ぎませんが、なお万を数えるほど残っています、もし私が残虐を尽くさず軌法を粛清できないとお思いなら、鼎鑊(釜茹での刑)に処されても甘んじてお受けしますが、酷政の刑という評は実に承服いたしかねます」と答えた。堅は群臣に「王景略はまことに管仲・子産の類だ」と述べこれを赦し、尚書左丞・咸陽内史・京兆尹に遷し、まもなく吏部尚書・太子詹事を拝命、さらに尚書左僕射・輔国将軍・司隷校尉に遷り騎都尉を加え宮中に宿衛させた。時に年三十六、五度の異動を経て権勢は内外を圧し、宗戚旧臣はみなその寵愛を妬んだ。尚書仇騰・丞相長史席宝がしばしば讒言すると、堅は激怒し騰を甘松護軍として出し、宝は白衣のまま長史を領させた。以後、上下はみな服し誰も口を出さなくなった。まもなく尚書令・太子太傅に遷り散騎常侍を加えられたが、猛はしばしば辞退を上表しても堅は許さなかった。また司徒・録尚書事に転じたが他はそのまま、猛は功がないとして辞退し受けなかった。

燕討伐の功績と辞退の上表

  • のちに諸軍を率いて慕容暐を討った際、軍紀は厳明で私犯もなかった。猛が鄴に至る前は盗賊が公然と横行していたが、着任すると遠近は服し燕人は安んじた。凱旋後、功により清河郡侯に進封され、美女五人、上等の女妓十二人、中等の女妓三十八人、馬百匹、車十乗を賜ったが、猛は固く辞退し受けなかった。冀州に留鎮していた際、堅は猛に六州の内で便宜に応じ英俊を選んで関東の守宰を補わせ、任命が済んでから朝廷に届け出させた。数月後、上疏して「私が以前、朝に召されて夕に拝命を受け、艱難を顧みなかったのは、まさに国難がまだ平定されず軍機が迅速さを貴んだからです、しかし今や聖徳は皇天に達し威霊は八表に及び、六合を弘化しすでに清泰であります、私はあえて丹誠を披瀝し賢路を避けることを願います、東夏の事は私ごときの器量で治められるものではありません、どうか親賢の者に授け替えていただき、私の躓きを救ってください、もし私に鷹犬の微功があるとしてなお見捨てがたいとお思いなら、一州の任に留めていただき力を尽くします」と願い出た。堅は許さず侍中梁讜を鄴へ遣わして意向を伝えさせ、猛はまた元通り職務に就いた。
  • まもなく召還されて丞相・中書監・尚書令・太子太傅・司隷校尉となり、持節・常侍・将軍・侯はそのまま、次第に都督中外諸軍事を加えられたが、猛は長く辞退の上表を続けた。堅は「そなたは昔は布衣に潜み、朕もまた雌伏していた、弱冠の頃、世事が紛糾する中でそなたに出会い、朕はそなたを臥龍になぞらえ、そなたもまた朕を一言で認めてくれた、それは千載一遇の精神の契り、傅巌の夢や姜太公の兆しにも劣らぬものだ、そなたが輔政してからほぼ二紀(二十四年)、内は百揆を治め外は群凶を掃討し、天下はほぼ定まり倫理も始まった、朕はこれから悠々と上に構え、そなたには下で心を尽くしてもらいたい、この弘済の務めをそなた以外の誰に託せようか」と応じず、数年後、再び司空を授けようとした。猛は再び上疏して辞退し「乾象は満ち欠けするものであり、これに則るのは君主です、位は才に相応しくあるべきで、官はみだりに空けるべきではありません、魏の祖(曹操)が文和(賈詡)を公に任じたことは孫の代まで笑いものとなり、千秋(田千秋)の一言で丞相となったことも匈奴に嘲られました、私ごときの狷介な者がこの任に応じれば、遠隣に笑われるだけでなく、虜に秦を軽んじさせることになりましょう、昔、東野の御者の窮乏を顔回が見抜いたように、陛下も私の才力を推し量られなければ、私はひそかに敗亡を恐れます、しかも上は憲典を虧き、私はどんな顔でこの位に処せましょうか、たとえ陛下が私を私情で庇っても、天下にどう申し開きできましょうか」と述べたが、堅はついに聞き入れなかった。

治世の実績と最期

  • 猛はこれで命を受け、軍国内外の万機の務め、事の大小を問わずすべて猛のもとに集まった。政治は公平で怠慢な官を退け埋もれた賢才を抜擢し、外は兵革を修め内は儒学を尊び、農桑を奨励し廉恥を教え、罪なくして刑せられる者なく才なくして任じられる者もなく、あらゆる政務が興隆し、兵は強く国は富み、太平の世を迎えられたのは猛の力によるものであった。堅は常々猛に「そなたは夙夜怠らず万機に心を尽くしてくれる、まるで文王が太公を得たようなものだ、朕はこれで悠々と余生を送れよう」と語ると、猛は「陛下が私の過ちをご存知とは思いませんでした、私ごときが古人に比肩できましょうか」と応じ、堅は「私から見れば、太公もこれに勝るとは思えない」と述べた。常に太子宏・長楽公丕らに「そなたたちは王公に仕えることを私に仕えるのと同じくせよ」と命じるほど重んじられた。
  • 広平の麻思が関右に流寓していたが、母の死により帰葬のため冀州へ戻ることを願い出ると、猛は思に「すぐに支度をせよ、今晩には符(通行証)が発せられ出発できるようにする」と述べ、実際その通りになった。関を出る頃には郡県はすでに符によって管理体制が整えられており、その号令が行き渡り事に滞りがないことはこの類であった。性格は剛毅明断で清廉厳格、善悪を厳しく分け、些細な恩や恨みにも必ず報いたため、当時の評判はこれをやや軽んじる向きもあった。
  • その年、猛は病に伏し、堅は自ら南北郊・宗廟社稷に祈り、侍臣を分けて河岳の諸祀にあまねく祈願させた。猛の病は癒えず、堅は境内に大赦し死罪以下を赦した。病が重くなると上疏して恩に謝し、あわせて時政の得失を述べ多くの益をもたらした。堅はこれを見て涙を流し悲慟した。病が篤くなると自ら見舞い後事を問うと、猛は「晋は僻陋な地にありますが呉越の正朔を継いでおり、親仁善隣は国の宝です、私の死後は晋を討つ企てをなさいませんように、鮮卑・羌の虜は我らの仇讐、いずれ人の患いとなりましょう、次第に除いて社稷に備えられますよう」と言い終えて没した。時に年五十一。堅は慟哭し殯までの間三度も哭に臨み、太子宏に「天は私に六合を統一させたくないのか、なぜこれほど早く景略を奪うのか」と語った。侍中・尚書を追贈し他の官はそのまま、東園の温明秘器(棺)・帛三千疋・穀万石を賜り、謁者僕射に喪事を監護させ、葬礼は漢の大将軍の故事に倣い、諡を武侯とした。朝野は巷での哭泣を三日間行った。