秦王健への功績
- 雷弱児、南安羌の酋長。洪が秦王を称すると弱児を輔国将軍とし、健の即位後は太尉、まもなく大司馬に遷った。当初、晋の揚州刺史殷浩は密かに人を遣わし弱児らを誘い秦王健を殺させ、関右の任を約束した。弱児は偽ってこれを承諾し兵の呼応まで請け合った。浩は張遇の乱を聞き、健の兄の子で輔国将軍黄眉が洛陽から西へ逃れたことから弱児らの計画がすでに成ったと考え、寿春から七万の兵で北伐し洛陽に進んで園陵を修復しようとした。吏部尚書王彪之は会稽王昱に上申し、弱児らの計略には詐りの疑いがあるためみだりに進軍すべきでないと述べたが浩は従わず、結局姚襄に襲われ譙城へ敗走した。襄と浩が対峙する中、秦人は漁夫の利を得た。これは弱児の計略によるものであった。
- その後、桓温が来攻すると、健は太子萇に雄・菁らを率いて防がせたが藍田で温に敗れ、温は灞上まで進み萇らは城南に退いて屯した。健は精兵三万を発して弱児を萇と合流させ防がせ、温は前進できず軍を返す頃には食糧も尽き、辛うじて潼関に入った。健は温を防いだ功に報い弱児を丞相とした。健が病に伏すと遺詔を受けて輔政した。
讒言による誅殺
- 弱児は剛直で直諫を好み、生の寵臣趙韶・董栄の奸佞な政治を公然と朝廷で批判し、いつも歯ぎしりして見せていた。韶・栄はこれを恨み生に讒言し、生はついに弱児とその九子二十七孫を殺した。弱児は苻氏に誠意を尽くし年老いても功があったが、生がこれを殺したことで、以後、諸羌はみな離反の心を抱き叛く者が相次いだ。