生涯
- 太后茍氏、略陽の氐人、堅の生母。堅の永興元年(357年)、皇太后に尊ばれた。堅が生を殺すと位を兄の清河王法に譲ろうとしたが法は受けず、群臣も重ねて堅に即位を求めた。太后は涙して群臣に「社稷の事は重い、この子(堅)は自分にできないことを知っているはずだ、後日悔いが生じても、その責は諸君にある」と語った。群臣が固く請うたため堅は即位し、法を丞相・東海公とした。太后は法が年長で賢く元来人望も厚いことから疑忌が特に深く、のちに宣明台に出遊した際に法の邸宅に車馬が輻輳するのを見て終には変事の因となることを恐れ、李威と謀って法に死を賜った。陽平公融は太后の末子で深く愛されており、冀州に出鎮するにあたって出発から三日目に灞上に至ったが、その夜、太后は密かに融のもとへ赴き、内外の誰もこれを知らなかった。この夜、堅は前殿で眠っていたが、太史令魏延が天変を上言し、堅がこれを問い質し驚いて以後、星官をいっそう重んじたという。
- のちに有司が「母の金を盗んで逃げた者がいる、四方の辺地へ追放すべきです」と上奏すると、太后はこれを聞いて怒り「三千の罪(重罪)の中で不孝より大きいものはない、市朝で棄てるべきだ、なぜ辺地へ追放するのか」と述べ、その者は車裂きにされた。建元十一年(375年)、病により没し、明徳皇后と追諡された。