十六国春秋前秦錄九 苻登

前秦最後の実質的な君主・苻登(字は文高、?–394年、享年五十二)。苻堅の族孫で、はじめ狄道長にすぎなかったが、関中の乱で枹罕に逃れ、氐羌に推されて征伐の全権を握った。苻丕の死を知って隴東で皇帝位に即き太初と改元、苻堅の神主を軍中に奉じ、将士は矛や鎧に「死休」と刻んで姚萇と九年にわたり戦い続けた。姚萇の死後に東進したが、廃橋の戦いで姚興に敗れ、馬毛山でついに戦死した。諡は高皇帝、廟号は太宗。

年表(10件)
  • 太安二年386年衛平が殺されたのち氐羌に推され、征伐の全権を専らにする
  • 太初元年386年徐嵩・胡空の帰順を受け、苻堅を改めて天子の礼で葬り直す
  • 太初二年387年胡空堡に拠り、帰属する戎夏は十余万に達する
  • 太初三年388年子の崇を皇太子、弁を南安王、尚を北海王に立てる
  • 太初四年389年竇衝・楊定らに丞相・州牧を授け、長安への大会を約す
  • 太初五年390年姚萇に新羅堡を落とされ、路祡・強武らが萇に降る
  • 太初六年391年馬頭原で姚萇と大戦して呉忠を斬るが、再戦に敗れ郿へ退く
  • 太初七年392年姚萇の発病を知って大赦し、安定に迫るが萇の術策に退く
  • 太初八年393年姚萇が病篤く長安へ戻り、まもなく没する
  • 太初九年394年太子崇が湟中で帝号を称し延初と改元、登を高皇帝と諡す

出自と挙兵まで

  • 苻登、字は文高、堅の族孫。父の敞は健の代に太尉司馬・隴東太守・建節将軍・頴川王となったが、生(苻生)に殺された。堅の即位後、右将軍・涼州刺史を追贈され、登の兄同成が跡を継いだ。登は若くして雄々しく勇壮な気質を持ちながら粗野で細事に構わなかったため、堅はこれを評価しなかった。成長すると節を折り謹厚な人柄となり書伝をよく読んだ。
  • 建元初め、南康王に封ぜられ殿中将軍を拝命、次第に羽林監・揚武将軍・長安令に遷ったが、事件に連座して狄道長に左遷された。関中が乱れると県を去り枹罕へ逃れ、河州牧毛興のもとに帰属し長史となった。当時、興は上邽に鎮していたが、登の兄同成が興に「登を司馬にして常に営部に置くべきだ」と進言した。登は度量が並外れ奇策を好んだ。同成は常々登に「そなたは『その位にあらざれば其の政を謀らず』という言葉を聞いたことがないのか、これから先は控えるべきだ、そなたが後で志を得た時に自ら専念すればよい」と語った。当時の人々は同成のこの言葉を聞いて、多くは登を疾んで抑え込もうとしていると受け取った。登はそれで身を潜め妄りに交遊を持たなくなったが、興は事があるたびに登を召し、戯れに「小司馬は座って事を評しなさい」と言った。登は言葉を発するたびに理を明快に解き、内心では興も彼に感服していたが、敬い憚りつつも重用するには至らなかった。
  • 太安二年(386年)、姚萇が乱を起こし弟の碩徳に毛興討伐の兵を送り、久しく対峙が続いた。登は南安を攻略し夷夏の帰属する者三万余戸を得て、そのまま碩徳を秦州に攻めた。姚萇は自ら軍を率いて救援に来たが、登はこれと胡奴坂で戦い大破し二万余級を斬った。将軍啖青が矢で萇を射当て、萇は深手を負って上邽へ逃げ拠った。碩徳がその衆を代わって統べた。毛興は死に臨んで同成に「そなたと長年共に逆羌を撃ってきたが、事は結局成らなかった、後事はそなたの弟司馬(登)に託すべきだ、碩徳を殄ぼす者はきっとこの人物だ」と告げた。まもなく氐羌が臨清伯衛平を襲い殺すと、登を推してこれに代え、登はここに征伐の全権を専らにするようになった。
  • 折しも旱害で衆は飢えに苦しみ、道には餓死者が相次いだ。登は戦のたびに討ち取った賊の死体を「熟食」と称し、軍人に「そなたらは朝に戦えば夕には満腹だ、飢えを心配することがあろうか」と語り、士衆はこれに従い死人の肉を食らってはたちまち満腹し健闘したという。姚萇はこれを聞いて碩徳を急ぎ召し「そなたが来なければ苻登に食い尽くされてしまうぞ」と告げ、碩徳はこれで隴を下り長安へ逃げた。

皇帝即位(太初改元)

  • 十一月、丕の尚書寇遺が渤海王懿・済北王㫤を奉じて杏城から南安へ逃げて来た。登はこうして丕の凶事を知り、丕のために喪を発し服を着け三軍は喪服に服した。登は懿を主に立てようとしたが、衆は皆「渤海王は先帝の子とはいえまだ幼く、この多難の中を担うには堪えません、国が乱れた時には年長の君を立てるのが春秋の義です、大王は剣を提げて西州に立ち秦隴を制し、姚萇を奔潰させたその一戦の功は天地を動かすほどです、まさに旧京を救い、社稷宗廟を第一と考えるべきです、わずかな節義に拘って、大業を興す機会を逃してはなりません」と述べた。そこで隴東に壇を築き皇帝位を僭称、境内に大赦し太安二年を太初元年と改め百官を置いた。
  • 十二月、世祖堅の神主を軍中に立て、輜軿(車)に乗せ羽葆・青蓋の車を用い黄旗を建て、武賁の士三百人でこれを守らせた。戦うたびに必ず神主に告げ、事を行う際は必ず主に啓してから実行した。甲を修め兵を整え軍を東へ進めようとした際、堅の神主に「曾孫皇帝臣登は太皇帝の霊により恭しく宝位に即きました、昔、五将の難で賊羌が聖躬に害をなしたのは、実に登の罪であります、今、義旅を集め、即日、賊の庭にまっすぐ進み、命を顧みず奮い立ちます、上は皇帝の酷い怨みに報い、下は人民の大恥をそそぐことを願うばかりです」と告げ、涙にむせび、将士は皆悲慟した。皆、矛や鎧に「死休」の字を刻み、戦死を志とすることを示し、戦のたびに長矟・鉤刃で方円の大陣を敷き、厚薄に応じて中から兵を分配したため、人はみな自ら戦い向かうところ敵なしであったという。
  • 当初、長安が陥落しようとした際、堅の中塁将軍徐嵩・屯騎校尉胡空はそれぞれ五千の衆を集め険阻な地に堡を築いて自衛し、まもなく姚萇の官爵を受けていたが、萇が堅を殺害すると嵩らは天子の礼で堅を二つの堡の間に葬った。この頃、それぞれ衆を率いて登に降ったため、登は嵩を鎮軍将軍・雍州刺史、空を輔国将軍・京兆尹とし、堅を改めて天子の礼で葬り直した。

太初二年

  • 太初二年(387年)春正月、妃毛氏を皇后に立て、渤海王懿を皇太弟とした。使者を送り東海王纂を使持節・侍中・都督中外諸軍事・太師・領大司馬に任じ魯王に進めようとしたが、纂の弟で撫軍大将軍・并州牧・朔方公の師奴は「渤海王は世祖の孫、先帝の子であるのに、なぜこれを立てず自ら尊んで登が即位したのか」と使者に怒った。長史王旅は「南安(登)はすでに立っています、道理として途中で改めるべきではありません、今、賊虜がまだ平定されていないのに、宗室の中で自ら仇敵となってはなりません、大王には光武帝が聖公(劉玄)に礼を尽くした故事に倣い、二虜を討ってから改めて議していただきたい」と諫め、纂は命を受けることにした。これにより盧水胡の彭沛谷・屠各の董成・張龍世・新平羌の雷悪地らはみな纂に帰属し、その衆は十余万に及んだ。纂は師奴に上郡を攻めさせ、羌酋金大黒・金洛生らがこれを迎え撃ったが大破され五千八百級を斬られた。
  • 三月、登は竇衝を車騎大将軍・南秦州牧、楊定を大将軍・益州牧、楊璧を司空・梁州牧、乞伏国仁を大将軍・大単于・范川王とした。夏四月、楊定は魯王纂と共に姚碩徳を攻め涇陽で戦い、碩徳は大敗した。姚萇は陰密からこれを救援し、纂は敷陸に退いて守った。五月、竇衝は萇の汧・雍の二城を攻めこれを克ち将軍姚元平・張略らを斬ったが、萇と汧の東で戦い敗れた。秋七月、登は瓦亭に進んだ。萇は彭沛谷の堡を攻め陥落させ、谷は杏城へ逃げた。八月、登の征虜将軍馮翊太守蘭犢は二万の衆で頻陽から和寧に入り、魯王纂と挟撃で長安を図ろうとしたが、朔方公師奴は兄の纂に帝号を称するよう勧め、纂が従わないと纂を殺して自ら秦公を称した。犢はこれで師奴と決別した。九月、萇は泥源に陣を構え、師奴が迎え撃ったが大敗し鮮卑へ逃げ、その衆の多くは崩れ散った。登は進んで胡空堡に拠り、戎夏の帰属する者は十余万に達した。冬十二月、姚萇は将軍姚方成に雍州刺史徐嵩の堡を攻め陥落させ、嵩を捕らえて咎めたが、嵩は罵り続けたため、方成は怒って斬り、戎士をことごとく生き埋めにしてその妻子を軍に賞として与えた。

太初三〜四年

  • 太初三年(388年)春二月、登は衆を率いて隴を下り朝那に入った。夏五月、太弟懿が没し、諡を献哀とした。姚萇は武都に拠り登と春以来対峙してしばしば戦い勝敗を分かち合っていたが、この頃ようやく双方とも囲みを解いて関西へ帰った。豪傑たちは萇が久しく戦功を上げられないのを見て多くが登に帰属した。登の軍中は大飢饉に見舞われた。秋八月、登は子の崇を皇太子に、弁を南安王に、尚を北海王に立てた。冬十月、姚萇は安定へ退いた。登は新平で食を求め大軍を胡空堡に留め、一万余の衆で萇の陣営を包囲し、四面から大声で哭泣させ悲しみの声で人々を動揺させると、萇はこれを不快に思い三軍にも哭泣で応じさせた。登は兵を引いて帰った。十二月、登は頴川王同成を太尉とした。
  • 太初四年(389年)春正月、登は河南王乞伏乾帰を大将軍・大単于・金城王とした。二月、登は輜重を大界に留め自ら軽騎一万余で安定羌の密造堡を攻めこれを克った。将軍竇洛・竇干らが謀反を企てたが発覚し萇のもとへ逃れた。登は彭池を討伐したが克てず、彌姐営や繁川の諸堡を攻めこれをすべて克った。夏四月、登は萇としばしば戦い、萇はしばしば敗れたため中軍姚崇に大界を襲わせたが、登は兵を返してこれを迎撃し安邱で大破、二万五千を捕斬した。秋七月、登は萇の将軍呉忠・唐匡を平涼に攻めこれを克り、尚書苻願を前禁将軍・滅羌校尉として平涼を守らせた。八月、登は苟頭原に拠り安定に迫った。萇は尚書令姚晃に安定を守らせ、自ら三万の兵で夜に大界の登の輜重を襲いこれを克ち、毛后と南安王弁・北海王尚を殺し、名将数十人を捕らえ男女五万余口を掠め去った。登は残った衆を収めて胡空堡に屯した。九月、楊定は隴冀を攻めこれを克り萇の従弟常を斬り邢奴を捕らえ、自ら秦州牧・隴西王を称した。登はそのまま称するままに官を授けた。
  • 冬十月、使者を送り書を持たせ、竇衝を大司馬・驃騎大将軍・前鋒大都督・督隴東諸軍事・雍州牧、楊定を左丞相・上大将軍・都督中外諸軍事・秦梁二州牧、楊璧を大将軍・都督隴右諸軍事・南秦益二州牧とし、衝に見存の衆を率いて先鋒として繁川から長安へ向かわせ、登自身は新平を経て新豊の千戸を占拠、定に隴上の軍を率いて後継とさせ、璧を仇池に留守させ、また監河西諸軍事并州刺史楊政・都督河東諸軍事冀州刺史楊楷にそれぞれの兵を率いて長安に大会するよう約した。政・楷はいずれも河東の人で、当初丕が敗れた際に流民数万戸を集め、政は河西に、楷は湖・陝の間に拠っており、使者を送って命を請うたため、登はそれぞれ官を授けた。十二月、姚萇は将軍王破虜に秦州を略地させたが、楊定は破虜と清水の格奴坂で戦いこれを大破した。登は張龍世を鴦泉堡に攻め、姚萇がこれを救援すると兵を引いた。萇は密かに東門将軍任甕に内応を装わせ、登を招いて開門させようとしたが、征東将軍雷悪地がこれを聞いて馬を走らせ登に「姚萇は策略に富み人を操るのが巧みです、必ず奸計に違いありません」と諫め、登はこれを止めた。萇は悪地が登のもとへ赴いたと聞き、諸将に「事は必ず成らないだろう」と語った。登は萇が門を懸けて待ち構えていると聞いて大いに驚き左右に「雷征東(悪地)はほとんど聖人ではないか、この公がいなければ朕は危うく豎子に謀られるところだった」と語った。登は安成王広を司徒とした。

太初五〜六年

  • 太初五年(390年)春三月、萇は新羅堡を陥落させ、扶風太守斉益男は郡を棄てて逃げ帰った。登の将軍路祡・強武らはみな衆を率いて萇に降った。登は萇の天水太守張業生を隴東に攻めたが、萇の救援によって克てず引き返した。夏四月、鎮東将軍魏掲飛は自ら衝天王を称し氐胡数万を率いて萇の安北将軍姚当成を杏城に攻めたが萇に殺された。秋七月、馮翊の郭質が広郷で挙兵し登に呼応、三輔に檄を移し、姚萇の凶暴を君父殺害の大罪として糾弾し、忠節に殉じて義を貫くべきだと訴えた。衆はこれに賛同したが、鄭県の人荀曜だけは従わず数千の衆を集めて萇に呼応した。登は質を平東将軍・馮翊太守としたが、質が歩兵将を送って曜を討たせると大敗して帰った。質はそこで東の楊楷を引き入れ後ろ盾とした。十二月、質は荀曜と鄭の東で戦い曜に敗れ、衆はみな崩れ散り洛陽へ逃れた。
  • 太初六年(391年)春三月、登は雍から萇の安東将軍金温を范氏堡に攻めこれを克り、渭水を渡って京兆太守韋範を叚氏堡に攻めたが克てず、曲牢に拠った。夏四月、荀曜は一万の衆で逆万堡に拠り、密かに登に内応を約した。登は曲牢から繁川へ向かい馬頭原に陣取った。五月、萇は騎兵を率いて防戦に来て大戦、登はこれを敗り右将軍(『載記』には尚書とある)呉忠を斬ったが、萇が衆を収めて再び戦うと登は敗れ郿に退いた。秋七月、新平に進撃すると萇が救援に来たため登は兵を引いた。冬十二月、再び安定を攻めたが萇が陰密からこれを防ぎ、登は敗れて路承堡に退いた。

太初七〜八年

  • 太初七年(392年)春正月、登は昭儀の隴西李氏を皇后に立てた。三月、姚萇は病に伏し堅の祟りを見たという。秋七月、登はこれを聞いて大いに喜び、馬を秣い兵を励まし堅の神主に、萇の病を堅の霊による裁きと見なし天誅を行う決意を告げた。境内に大赦し百僚の位を二等進めた。萇の将姚崇と清水で麦を争いしばしば崇に敗れたが、進んで安定に迫り城まで九十余里に至った。八月、萇の病がやや癒え衆を率いて登を防ぎ、登は兵を出して陣を構え応戦しようとした。萇は安南将軍姚熙隆に別に登の陣営を攻めさせると、登は恐れて退いた。萇は夜に軍を率いて脇道から登の陣営を三十余里越え、その後方に回り込んだ。翌朝、物見が「賊の諸営はすでに空で、行方が分からない」と報告すると、登は驚いて「彼は何者だ、私が知らぬ間に去ったかと思えば、また気づかぬうちに戻ってくる、死んだと思えば忽然と現れる、朕はこの羌と同世代でありながら、なんとこれほどの因縁に遭うのか」と嘆き、軍を引き上げ雍へ戻り、萇も安定へ戻った。冬十月、関中にいた巴蜀の人々がみな叛き萇に背き弘農に拠って登に帰属した。登は竇衝を右丞相とし、衝は華陰に移り屯したが、晋の河南太守楊佺期がこれを撃破し衝は敗走した。
  • 太初八年(393年)、右丞相竇衝は自らの才を誇り人を見下し、自ら天水王への封を求めたが登は許さなかった。夏六月、衝は叛いて自ら秦王を称し元光と改元した。秋七月、登は衝を野人堡に攻め、衝は姚萇に救援を求めた。萇は太子興に兵を授け胡空堡を攻めて救援させたため、登は衝の包囲を解き兵を返して胡空堡へ赴いた。衝はそのまま萇と和を結んだ。折しも萇の病は重くなり長安へ戻り、まもなく没した。

太初九年と苻登の最期

  • 太初九年(394年)春正月、登は姚萇の死を聞いて喜び「姚興は小僧め、私は杖を折ってこれを打ち据えてやろう」と述べ、大赦して全軍を挙げ東へ進み、司徒安成王広に雍を、太子崇に胡空堡を守らせ、使者を送り金城王乞伏乾帰を左丞相・河南王・領秦梁益凉河五州牧とし九錫を加えた。二月、屠各の姚奴・帛蒲の二堡を攻めこれを克った。夏四月、登は甘泉から関中へ向かい、姚興は登を追ったが数十里及ばなかった。登は六陌から廃橋へ向かい、興の始平太守姚詳が馬嵬橋に拠って防戦、興はさらに尹緯に兵を授け詳を救援させ、緯は廃橋に拠って待ち構えた。登は水を争って得られず、衆の渇死者は十のうち二、三に及び、緯と大戦して敗れ、その夜、軍は崩れ散った。登は単騎で雍へ逃げた。太子崇と安成王広は敗報を聞いていずれも城を棄てて逃げた。登は身を寄せる所もなく平涼へ逃れ、残った衆を集めて馬毛山に入った。
  • 秋七月、興は登を馬毛に攻めた。登は子の汝陰王宗を河南王乞伏乾帰のもとへ人質として送り救援を請い、乾帰を梁王に進封し、その妹を娶って梁王后とした。乾帰は前将軍乞伏益州らに一万の騎兵を授け救援させ、登は衆を率いて出迎えたが、乾帰の兵が至る前に興が自ら安定から涇陽へ向かい登と山の南で戦い、登は興に敗れて戦死した。時に年五十二、在位九年。太子崇は湟中へ逃れ帝号を僭称し延初と改元し、登を高皇帝と諡し廟号を太宗とした。
  • 冬十月、崇は梁王乞伏乾帰に追われ隴西王楊定のもとへ逃れた。定は司馬邵彊に秦州を守らせ二万の衆で崇と共に乾帰を攻めたが、乾帰は涼州牧乞伏軻弾らに二万の騎兵を授けて防がせ、定と崇はいずれも殺された。苻健の皇始元年、歳は辛亥(晋の永和七年、351年)から、登に至る五世、この年(苻登の死んだ年)は歳が甲午(394年)に当たり、合わせて四十四年、晋の太元十九年(394年)に前秦は滅びた。