十六国春秋前秦錄一 苻洪
略陽臨渭の氐人で、もとは蒲を氏とした苻洪(字は広世、?–享年六十六)。西戎の酋長の家に生まれ、十二歳で父の跡を継いで部帥となり、前趙の劉曜、後趙の石虎に相次いで服属して関中の氐族を統べた。石虎の死後の混乱に乗じて枋頭で自立し、讖文にちなんで姓を苻と改め三秦王を称した。麻秋に毒を盛られて没したが、関中へ進めという遺言は子の健に引き継がれ、前秦建国の礎となった。子の健が帝位に即くと惠武皇帝と追諡され、廟号は太祖。
出自と氐族酋長としての台頭
- 苻洪、字は広世、略陽臨渭の氐人。その先祖は有扈氏の末裔とされ、子孫は強盛で代々武都に住み西戎の酋長であった。かつて一族の池中に蒲(がま)が生え、長さ五丈、五節あって竹のような形をしていたため、人々はこれを異とし「蒲家」と呼び、そのまま氏とした。父の懐帰は部落の小帥であった。母の姜氏が眠りながら出産した際、洪は驚いて目を覚ましたという。これより先、隴右で大雨が降り続き百姓が苦しみ「雨がもし止まなければ洪水が起こるだろう」という童謡が流行ったため、これにちなんで洪と名付けたという。
- 十二歳で父が没すると部帥を継ぎ、施しを好み権謀に富み、驍勇で騎射を善くした。劉氏(前趙)の乱に乗じて千金を惜しみなく使って俊傑を招き、安危変通の術を尋ね求めたため、戎・晋の民が相次いでその下に身を寄せ、同族の蒲光・蒲突らはこぞって洪を盟主に推した。
劉曜・石虎への服属
- 劉曜が長安で帝位を僭称し使者を送って平遠将軍に任じようとしたが受けず、自ら護氐校尉・秦州刺史・略陽公を称した。光らが洪に曜への帰順を迫ると、曜は洪を寧西将軍・率義侯とした。曜が洛陽で敗れると、洪は部民を率いて西の隴山を守り、氐族の主となった。
- 石虎が上邽を攻めた際、洪はこれに降った。虎は大いに喜び自ら出迎え、冠軍将軍に任じ西方の事を委ね、監六夷諸軍事・涇陽伯とした。趙の建平四年、石生が関中で挙兵すると、洪は西の張駿と結び自ら晋の北平将軍・雍州刺史を称した。虎が生を滅ぼすと、洪は三万戸を率いて隴を下り馮翊に至り、虎に関中の豪傑や羌戎を東方へ移して実らせるよう進言し「諸氐はみな私の家の部曲です、私が率いて従わせれば誰も逆らう者はいますまい」と述べ、虎はこれに従い、洪を護氐校尉に任じ秦雍・氐羌十余万戸を関東へ移させた。龍驤将軍・流民都督に遷り枋頭に配され、段遼討伐に従軍して功を立て光烈将軍に遷り侯に進んだ。まもなく使持節・都督六夷諸軍事・冠軍大将軍を拝命し西平郡公に進み、その部下二千余人にも関内侯の爵位が与えられ、洪自身も関内領侯となった。
石虎政権下での重用と危機
- 冉閔は虎に「蒲洪は雄々しく果断で将士の死力を得ており、その諸子もみな非凡な才があります、しかも強兵五万を擁して都近くに屯しています、ひそかに除いて社稷を安んずるべきです」と進言したが、虎は「私はまさに彼ら父子を頼りに呉蜀を取ろうとしているのに、なぜ殺す必要があろうか」と応じかえって厚遇した。仏図澄もまた虎に「蒲氏の相には王気がある、急ぎ除くべきだ」と進言し、虎は密かに洪を殺そうとしたが、洪は病と称して朝見しなかった。梁犢の乱に際し虎は洪を車騎将軍として燕王石斌に従わせ討伐に赴かせ、乱を平定すると侍中・車騎大将軍・開府儀同三司・都督雍秦州諸軍事・雍州刺史に進み、本国略陽郡公に改封された。
石虎死後の自立
- 虎が没し石遵が即位すると、冉閔は再び遵に「蒲洪は人傑です、今このまま関中を鎮めさせれば、秦雍の地は国家のものではなくなってしまいましょう、これは先帝の臨終の命ではありますが、陛下が即位された今こそ考えを改めるべきです」と進言、遵はこれに従い洪の都督職を解いた。洪はこれを怨み枋頭へ帰り、晋へ使者を送って降伏を申し出た。
- のちに石鑒が遵を殺すと各地で兵が起こり、秦雍の流民が相次いで西へ帰る道すがら枋頭を通り、こぞって洪を主に推し、その衆は十余万に達した。洪の子健は鄴にいたが関門を破って脱出し枋頭へ奔った。鑒は洪の勢力が迫るのを恐れ、計略でこれを遠ざけようと、洪を都督関中諸軍事・征西大将軍・雍州牧・領秦州刺史に任じた。洪が官属を集めてこれを受けるべきか議した際、主簿の程朴は「しばらく趙と和を結び、列国のように境を分けて統治すべきです」と進言したが、洪は怒って「わしが天子になれぬとでも言うのか、列国などと」と一喝し朴を引き出して斬った。
秦王への即位と苻氏への改姓
- 東晋の永和六年(350年)、東晋の朝廷が中原回復を図り、洪を氐王・使持節・征北大将軍・都督河北諸軍事・冀州刺史・広川郡公に任じ、子の健を仮節・右将軍・監河北征討前鋒諸軍事・襄国公とした。当時、姚弋仲もまた関中に拠る野心を抱いており、洪に先を越されることを恐れて子の襄に五万の兵を率いさせ洪を討たせたが、洪はこれを迎え撃って撃破し三万余級を捕斬した。これを見た安定の梁楞ら関西の民望は洪に「今、胡の運は尽きようとし中原は乱れている、明公の神武なれば必ず大業を成し周漢の跡を継げましょう、帝号を称して四海の望みに応えるべきです」と勧めた。
- 洪もまた讖文に「草付が王に応ず」とあり、また孫堅の生誕時に背に「草付」の文字があったという伝説にちなみ、姓を苻氏と改め、自ら大都督・大将軍・大単于・三秦王を称した。南安の雷弱児を輔国将軍、安定の梁楞を前将軍・領左長史、馮翊の魚遵を後将軍・領右長史、京兆の段陵を左将軍・領左司馬、王墮を右将軍・領右司馬、天水の趙俱・隴西の牛夷・北地の辛牢をいずれも従事中郎とし、氐酋の毛貴を単于輔相とした。洪は博士の胡文に「わしは十万の衆を率い形勝の地に拠っている、冉閔・慕容儁は指を屈する間に滅ぼせよう、姚襄父子を討つのもわが術中にある、わしが天下を取るのは漢の高祖よりも容易だろう」と語った。
麻秋の裏切りと死
- かつて石虎が麻秋に枹罕を鎮めさせていたが、冉閔の乱に際し秋は衆を率いて鄴へ帰ろうとし、洪は子の龍驤将軍雄にこれを迎え撃たせ捕らえて軍師将軍とした。秋は洪に「冉閔と石祗が互いに争っている今、中原の乱はまだ平定できない、まず関中を取って基業を固め、その後東征すれば天下に誰も敵う者はいない」と説き、洪も深く賛同した。しかしまもなく秋は宴席で洪を毒殺しその軍を併呑しようとしたが、世子健がこれを察知して秋を捕らえ斬った。
- 洪は死に臨んで健に「わしが関中へ入らなかったのは、中原はまもなく平定できると思っていたからだ、今、不幸にも豎子(麻秋)に毒されてしまった、中原はお前たち兄弟の手に負えるものではない、関中は周漢の旧都であり形勝の国だ、進めば天下を統一でき、退いても秦雍を保つことができる、わしの死後はただちに兵を進めて西へ向かえ」と言い終えて没した。享年六十六。健が皇帝を僭称すると惠武皇帝と追諡し廟号を太祖とした。