十六国春秋前燕錄九 韓恒

廆・皝への出仕

  • 韓恒、字は景山、灌津の人。父の黙は学識と品行で名を知られ、恒は十歳で文を綴る才があり、同郡の張載に師事すると載は「王佐の才だ」と評した。身長八尺一寸、経籍を博覧し通じないものがなかった。永嘉の乱で遼東に避難し崔毖を頼ったが、廆が毖を追放すると恒は捕虜として棘城へ移された。廆はこれを召して語らい喜び参軍事に任じた。
  • 咸和年間(328年頃)、宋該らが廆に大将軍・燕王の号を求める上表を建議し、廆もこれを許そうとして群僚に広く議論させた際、皆該の議に賛成する中、恒だけは「諸胡が隙に乗じ中原が荒廃した中、公は忠武篤敬で社稷のために孤軍で勤め、万里の外に功を立ててきた、古来これほどの勤王の義はない、功を立てる者は信義が明らかでないことを憂うべきで、名位の低さを憂うべきではない、桓公・文公も覇業を成すにあたり先に礼命を求めて諸侯に命じたりはしなかった、今はまず甲兵を整え機会を待って群凶を除き四海を清めるべきで、功成れば九錫は自ずと至る、君主に取り入って寵爵を求めるのは臣たる道ではない」と反対した。廆はこれを快く思わず恒を新昌令に左遷したが、皝が鎮軍将軍となると再び参軍事とし、営丘太守に遷ると政化が大いに行われた。儁が大将軍となると諮議参軍に召し、揚烈将軍を加えた。

五行相次を巡る議論

  • 儁が皇帝を僭称し五行の相次(王朝の徳を五行のいずれに配するか)を定めようとした際、議論が紛糾したが、恒はちょうど龍城で病に伏していたため呼び寄せて決めさせようとした。恒が到着する前に群議は燕を晋の後継として水徳とすべきとしていたが、恒は到着すると儁に「趙(後趙)が中原を得たのは人事によるものではなく天命による、天が与えたものを人が奪うことはできない、私見では不可である、そもそも大燕の王迹は震(八卦の一つ、東方・木徳を表す)に始まる、易では震は青龍にあたり、天命を受けた当初、都邑に龍が現れたのも木徳の符瑞である」と論じ、儁は当初改めるのを難しく思ったが最終的に恒の議に従い燕は木徳とされた。秘書監の聶熊はこれを聞いて「君子あってこそ国は興る、まさに韓令君(恒)のことだ」と嘆じたという。恒はのちに李産と共に東宮の傅となり、太子曄の参内に従った際、儁は左右に「この二人の傅は一代の偉人だ、後を継ぐ者は容易には現れまい」と語ったといい、それほど重んじられていた。