出自と廆・皝への出仕
- 陽騖、字は士秋、右北平無終の人。父の躭は清廉沈着で遼西太守を務めたが、慕容翰が段氏を陽楽で攻めた際に捕らえられ、廆はこれを厚く礼遇して謀主とし東夷校尉にまで至らせた。母の李氏は博学で母の鑑としての徳を備え、皝は常に堂に上ってこれを拝したという。
- 騖は若くして清廉で学を好み、識見は深遠であった。平州別駕から仕え始め、しばしば安時強国の策を献じ多くが採用され、廆はその才を高く評価した。皝の即位後は左長史に遷り、東西の征伐の帷幄に参謀として関わり、建寧公に封ぜられた。皝は臨終の際、儁に「陽士秋(騖)は志操高潔で忠実堅固、大事を託せる、これを厚遇せよ」と遺言し、儁が中原平定を企てた際、騖の戦功は太原王恪(慕容恪)に次ぐものであったという。
晩年
- 暐(慕容暐)が即位すると師傅の礼をもって遇し親任は日ごとに篤くなった。太尉となった際、騖は「昔、常林・徐邈ら先代の名臣でさえ三公の重責を最後まで辞退したというのに、私のような浅薄な者にどうしてその徳が務まろうか」と嘆いて固く辞職を求めたが、暐は許さなかった。騖は四代(廆・皝・儁・暐)に仕え年老いてもなお声望篤く、太原王恪以下皆これに礼を尽くした。騖は謙恭謹厚さを若い頃以上に貫き、子孫を厳しく戒めて朱紫の高官が居並ぶ中でもその法度を犯す者はなかった。特に倹約を旨とし施しを惜しまなかったため、三公の位・郡公の爵にありながら常に傷んだ車と痩せ牛に乗り、没した際には葬儀の財すらなく人々はみな深く惜しんだという。諡を敬といい、子の瑶は前秦の苻堅の代に王猛の推薦で著作佐郎となり、のちに顕官を歴任した。