廆への出仕
- 封奕、字は子専、渤海蓚の人。祖父の釋は晋の東夷校尉となり、遼東の塞外に住む鮮卑素喜連らが侵入して郡県を略奪した際、釋自身は討伐できなかったが廆がこれを撃ち斬って遼東を平定した。ちょうど釋が病に伏していた頃、奕はまだ幼く廆に託されていた。釋が没すると廆は奕を召して語らい「奇士だ」と評し小郡の督に任じた。釋の子・冀州主簿の悛と幽州参軍の抽は喪に来た際、廆は「この一族はまさに千斤の駿馬のような人材だ」と評し、道が塞がれて帰れないまま皆廆に仕えることとなり、廆は抽を長史、悛を参軍とし、まもなく奕を軍諮祭酒として軍国の機要を悉く委ねた。
皝の代の武功と相位
- 皝の即位後、その弟仁が東の平郭で叛くと遼東の郡県の多くが去就に迷い、皝は奕を遣わして慰撫させたが道が塞がれて引き返し、代わりに鮮卑の木堤を白狼で討って勝利した。段遼が柳城に侵攻し守将が持ちこたえられなくなった際、奕は軍を率いて救援し、城が陥落寸前のところを陣を立て直して力戦しかろうじて守り抜いた。右司馬に遷り、まもなく宇文逸豆帰を撃って大勝、その別部の大人たちも降伏した。鎮軍左長史に進み、諸将佐と共に皝に燕王を称するよう勧め、皝の即位後は相国に進み武平侯に封ぜられ、冉閔討伐にも功があった。相位に十五年在任し、政務の合間にも学問を講じ後進を引き立て、喜怒を面に表さなかったという。
儁・暐の代
- 儁の即位後は太尉・領中書監に進み、さらに十余年在任して国策決定の元勲となった。暐の代に龍城へ遷都しようとした際、宗廟社稷と留め置かれた百官の家族を迎えるには徳望ある大臣が必要とされ、奕は侍中の慕輿龍と共に赴いた。着任すると暐自ら群臣を率いて道端まで出迎えたという。奕は暐の建熙六年(365年)に没し、諡を匡公といった。