出仕以前
- 張賔、字は孟孫、趙郡中山の人。父の瑤は中山太守。若くして学を好み経史に博通し、章句の細部にはこだわらず闊達な大志を抱いていた。かつて兄弟に「わが智謀は張良に劣らぬが、高祖のような主君に出会えないだけだ」と語ったという。中山王帳下都督に任じられたが意に染まず、病を理由に辞した。
石勒への出仕と謀主としての活躍
- 永嘉年間の大乱に際し、劉淵の輔漢将軍として山東を転戦する石勒を見て「これほどの将軍はいない、共に大事を成せる」と剣を提げて軍門に至り面会を求めた。当初勒はさほど評価しなかったが、賓がしばしば献策しことごとく的中したため重んじ、以後謀主として策謀に外れがなく、勒の基業樹立に多大な功があった。
- 右長史・大執法となり濮陽侯に封ぜられ、群臣随一の寵遇を受けながらも謙虚に人と接し、賢愚を問わず心を尽くして応対し、百僚を粛正し私縁を排して自ら模範となった。勒は朝会のたびに威儀を正し「右侯」と呼んで名を呼ばぬほど敬い、「大事に臨んでわしの考えがまとまる前に右侯はすでに答えを得ている」と常々嘆じたという。
死去とその後の余波
- 賓が死去すると、勒は自ら哭して深く哀しみ、散騎常侍・右光禄大夫・儀同三司を追贈し諡を景とした。葬送の際、正陽門で見送りながら涙して「天は我が事業を成させたくないのか、なぜこれほど早く右侯を奪うのか」と嘆いた。後任の程遐と議論が合わぬたびに、勒は「右侯が去って私はこのような輩と事をなさねばならぬとは、なんと酷いことか」と涙したという。