仏図澄による蘇生と初期の経歴
- 石斌は虎の庶子で母の斉氏はもと娼妓であった。身分が低いため甚だしい寵愛は受けなかったが、勒はこれを引き取って我が子のように可愛がった。ある日、突然の病で三日にわたり殯(もがり)の準備がなされるほどであったが、勒は「私は虢の太子が死んだ時、扁鵲がこれを生き返らせたと聞く、今、大和尚(仏図澄)は国中の神人だ、急ぎ知らせれば必ず福をもたらせよう」と嘆き、人を遣わして澄に告げさせた。澄は楊柳の枝を水に浸して灑ぎ呪文を唱え、斌の手を執って「起きよ」と言うと、斌は蘇生し、まもなく平復した。
- 建平元年、左衛将軍を拝命し太原王に封じられた。石弘の即位後、章武王に改封され、虎の天王僭称に伴い諸王は皆爵位を公に降格されたため章武公となったが、後に大司馬・都督辺郡・幽州牧に累進し燕公に改封された。
暴虐と虎の激怒
- 斌は酒色と狩猟に溺れ、しばしば冠も付けずに出入りし、凶徒たちがこれに乗じて暴虐を働いた。征北将軍張賀度は辺防への警戒を理由にしばしば諌めたが、斌は怒って賀度を辱めた。虎はこれを聞いて激怒し、主書を礼儀の監督として持節で派遣したが、斌は意に介さず、主書が儀礼違反を咎めるとこれを殺し、さらに賀度も殺そうとしたが、賀度は厳重に守りを固め急を虎に告げた。
- これに先立ち、仏図澄は虎に「天神が昨夜、疾を収め馬を還すよう告げ、秋に至れば癰爛(腫れ物と腐敗)が起こるだろう」と戒めていたが、虎はこの言葉の意味を解せず各地の牧場の馬をただちに送り返させていた。ここに至り賀度が斌のことを虎に告げると、虎は尚書張離に持節で騎兵を率いさせ斌を召し出させ、鞭打つこと三百、その生母斉氏を殺した。虎は弓を引き絞り自ら刑の執行を見届けたが、罰が軽いとしてさらに自ら手を下して五人を殺した。
- 仏図澄が「心を放縦にすべきでないが、死者を生き返らせることもできない、礼は親を殺さぬものであり恩を傷つけるからだ、まして天子が自ら手を下して罰を行うことがあってよいものか」と諌めると、虎は思いとどまり、斌を免官として邸に帰した。斌の側近十余人も誅殺されたが、まもなく再び使持節・侍中・大司馬・録尚書事に任じられた。
太子擁立を巡る動向と非業の死
- 虎は石宣を誅殺した後、斌を太子に立てようと考えたが張豺がこれを諌め止めたため、代わりに世が太子に立てられ、斌は王に進爵した。まもなく大都督・督中外諸軍事に遷り精騎一万を率いて梁犢を滎陽の東で斬った。虎が病に臥すと丞相・録尚書事に遷り張豺らとともに遺詔を受けて輔政することとなった。
- 劉后は斌の輔政が世(自分の子)に不利になることを恐れ、張豺と謀ってこれを誅そうとした。斌は当時襄国におり虎の病を知らなかったため、使者を遣わし「主上の病はすでに癒えつつある、狩猟を好むならしばらく留まってよい」と偽って告げると、斌はもとより酒を好み狩猟に耽っていたため、そのまま遊猟と痛飲にふけった。劉氏は詔を偽って斌に忠孝の心なしとし免官のうえ邸に帰らせ、張豺の弟雄らに龍騰の兵五百人を率いさせて監視させ、まもなく雄に再び偽詔を持たせて斌を殺させた。