十六国春秋後趙錄十 石堪

皇太后との謀議と挙兵の失敗

  • 石堪はもと田氏の子であったが、しばしば戦功を立てたため勒はこれを養って子とし石氏を冒姓させた。太和三年、彭城王に封じられた。
  • 石弘が即位すると虎が朝政を総攬し、府僚・旧佐はことごとく要職に居座った。太后劉氏は堪に「先帝が崩御されたばかりだというのに丞相(虎)はすでにこれほど専横を振るっている、このままでは皇祚の滅びも遠くない、まさに虎を養って自らを害するようなものだ、王はどう図るつもりか」と告げた。堪は「先帝の旧臣は皆疎んじられ退けられ、軍旅ももはや人に由らず、宮中でも策を講じる術がありません。臣が兖州に出て廩丘に拠り南陽王恢を盟主に推戴し、太后の令を諸牧守・征鎮に宣べ義兵を挙げさせれば、あるいはなお救う道があるでしょう」と答えた。劉氏は「事は急を要する、すぐに発つがよい、ぐずぐずすれば漏れて変事が生じよう」と応じ、堪はこれを承諾した。
  • 堪は微行して軽騎で兖州を襲おうとしたが機を逸して成功せず、南の譙城へ逃れた。虎は将の郭泰を遣わして追撃させ城父で捕らえ、襄国へ送って炙り殺した。