十六国春秋後趙錄六 石虎(中)

後趙の君主石虎の建武五年(339年)から十一年(345年)までを記す。五経博士の再置や名族の兵役免除など文治の施策を見せる一方、荊揚へ侵攻して邾城を陥とし、慕容皝や涼州の張駿と攻防を繰り返した。閣道・行宮・未央宮などの造営と数十万規模の徴発、後宮への女性一万余人の徴集で民を極度に疲弊させた。太子石宣と秦公石韜の対立、宦官申扁の専権が進み、諫言する重臣は次々に退けられていった。

年表(20件)
  • 建武五年339年諸郡国に五経博士を立て、国子博士・助教も再置する
  • 339年庾亮の趙討伐計画に蔡謨が反対し、朝議も同調して晋の移鎮が取りやめになる
  • 339年張貉が邾城を陥として死者一万余を出し、夔安は漢東から七万余家を幽冀へ移す
  • 339年李農を征東将軍・営州牧として令支に鎮させ、燕の凡城を攻めさせる
  • 建武六年340年大旱を受けて自らの不徳を責め、西山の禁を解いて山沢の利を民に開放する
  • 340年慕容皝が幽冀を襲って高陽まで進み三万余家を掠め、幽州刺史石光は召還される
  • 建武七年341年劉務桓の入貢を受けて平北将軍・左賢王とし、王華に海路から燕の安平を襲わせる
  • 建武八年342年襄国から鄴まで二百里の閣道を築き、四十里ごとに一宮を設ける
  • 342年貝丘の李弘が民の怨嗟に乗じて姦党を結び、発覚して誅殺され数千家が連座する
  • 342年済南の岩「石虎」の移動を天意と喜び、諸州の兵を集めて江南平定を志す
  • 建武九年343年自ら慕容皝を討つが敗れる
  • 343年晋の庾翼が慕容皝・張駿と期を約して北伐の態勢を整え、康帝が檄文を発する
  • 343年太子石宣が鮮卑の斛谷提を大破するが、冬に張伏都が謝艾に河西で大敗する
  • 建武十年344年白雁の怪異を宮室が空になる前兆と告げられ、南征の軍を解く
  • 344年天水の隠者楊軻を厚礼で招くが応じず、後に帰郷を許され兵乱の中で殺される
  • 344年霊昌津の河橋建設が地震と洪水で失敗し、工匠を斬って工事を中止する
  • 建武十一年345年義陽公石鑒を鄴へ召還し、楽平公石苞を長安の鎮守に代える
  • 345年雍洛秦并州から十六万人を徴発して長安の未央宮を築く
  • 345年洛陽宮修築に二十六万人を徴し、百姓の娘一万余人を後宮に集めて三千余人が死ぬ
  • 345年姚弋仲を十郡六夷大都督・冠軍大将軍とし、鄧恒に攻城具を整えさせて燕討伐に備える

五経博士の再置と人事の粛正(建武五年)

  • 建武五年(339年)春正月、虎は諸郡国に五経博士を立てるよう命じた。石勒の代にすでに大小学博士を置いていたが、これに加えて国子博士・助教も再置した。
  • 虎は吏部の人選が老練の徳望ある者を退け権門の子弟ばかりを美官に就けていることを問題視し、郎中の魏某を庶人に落とした。

晋の対趙軍議と蔡謨の慎重論(建武五年)

  • 夏四月、晋の征西将軍庾亮は参軍趙松を遣わして巴郡江陽を攻め、蜀将李閎・黄桓らを捕らえた。亮はさらに十万の兵を率いて石城に本拠を移し、諸軍を江沔一帯に配して趙討伐の態勢を整えようとし、朝廷に諮った(晋の咸康五年)。丞相王導はこれを許そうとしたが、太尉郄鑒は準備不足を理由に大挙に反対した。
  • 太常蔡謨は長文の意見書を奉り、劉邦が巴漢に退き平城で屈辱を忍んだ故事、文王の羑里幽閉、句践の会稽の恥などを引いて「石虎の強弱がわかれば時機の可否もわかる」と説いた。さらに石虎が石勒死後の内乱を平定し金墉・石生・彭彪・石聰・郭権らを次々に討った実績を挙げ、桓宣が以前襄陽を守った際に趙軍(一に「胡」に作る)の攻撃を退けたに過ぎない戦績と、石虎軍・金墉の堅固さ・大江に勝る沔水の険しさなどを具体的に比較して、無謀な西進は敗れると論じた。朝議もこれに同調し、亮は結局移鎮を取りやめた。
  • 亮の弟庾懌は梁州刺史として魏興を守っていたが、部下の牙門霍佐が将士の妻子を出迎えた隙に三百余口を率いて石虎方に投降するという事件も起きた。
  • また燕(慕容皝)が別将を遣わして遼西を攻め、虎は鎮遠将軍石成、積弩将軍呼延晃、建威将軍張支らに迎撃させたが晃・支は討ち死にし、燕軍は数千家を虜にして引き上げた。

荊揚方面への侵攻と邾城の陥落(建武五年秋~冬)

  • 秋七月、太子宣を大単于とし天子の旌旗を建てさせた。八月、夔安を征討大都督とし、石鑒・石閔・李農・張貉・李菟の五将軍、歩騎五万を率いて荊揚の北辺に侵攻させた。
  • 九月、石閔は晋軍を沔陰で破り将軍蔡懐を殺し、夔安・李農は沔南を攻略した。太子宣配下の朱保は白石で晋軍を破り将軍鄭豹ら五人を殺した。張貉は邾城を攻めて晋の毛宝を邾西で破り、毛宝が庾亮に急を告げたが、亮は城が堅固だとして援軍を遅らせたため邾城は陥落、死者一万余人に上った。西陽太守樊峻は毛宝とともに包囲を突破して江に逃れたが溺死した。
  • 夔安はさらに胡亭に進んで江夏を侵し、晋の黄冲・鄭進は郡ごと投降したが、竟陵太守李陽の抗戦に遭って首虜五千余級を失い、密かに兵を退いて漢東を掠め七万余家を幽冀へ移した。

御史中丞李巨の登用と関中名族の優遇

  • このころ豪族・外戚による賄賂の横行が公然化しており、虎はこれを憂えて殿中御史李巨を御史中丞に抜擢し特に重用した。以後百官は震え上がり州郡も粛清された。虎は「良臣は猛獣のようなもので、大道を行けば豺狼も道を避けるというが、まさに李巨のことだ」と激賞し厚く賞したが、巨は間もなく病没した。
  • 鎮遠将軍王擢は、雍秦二州の名族が東方へ移されて以来ずっと辺境の戍役に服してきたことを上表し、衣冠の家柄として優遇を求めた。許可され、以後皇甫・胡・梁・韋・杜・牛・辛ら十七姓は兵役の名籍を免ぜられ漢族の名門と同様の扱いを受け、才能に応じて任用され、故郷への帰還を望む者もそれを許された。それ以外の家はこの例には含まれないとされた。
  • 冬十月、李農を持節都督遼西北平諸軍事・征東将軍・営州牧として令支に鎮させ、張挙とともに燕の凡城を攻めさせた。虎は遼西が燕境に近く度々攻撃を受けるため、その民を冀州南部へ移した。十二月、太保桃豹が没した。

慕容皝との攻防と成漢・涼州との駆け引き(建武六年)

  • 建武六年(340年)春二月、石成は慕容皝と遼西で戦い大敗して引き返した。夏六月、大旱で白虹が空を貫き正月から六月まで雨が降らず、太子宣を臨漳の滏口に遣わして祈雨させても効はなかった。虎は詔して自らの不徳を責め、西山の禁を解いて蒲葦・魚塩を民に開放し、公侯卿牧が山沢を占有して民の利を奪うことを禁じた。また刑徒を鉱山に配する慣行が恒法化して怨嗟を生んでいたとして今後は必ず上奏を経ること、殺人を犯していない京師の囚人は皆赦免することを命じた。仏図澄に祈雨させると白龍が現れ数千里四方に雨が降り、その年は大豊作となった。
  • 秋七月、虎は成漢の李寿に書を送り共同で晋を攻め江南を分割することを提案した。九月、尚書令夔安が没した。虎は慕容皝討伐のため司冀青徐幽并雍の七州から重ねて徴発し、鄴の旧軍と合わせ多数の兵を集め、船一万艘を仕立てて黄河から海路で軍糧を楽安城へ運ばせた。遼西・北平・漁陽の民一万余戸を兖豫雍洛の四州へ移し、幽州以東から白狼まで屯田を大興した。国内の馬不足を補うため民間の馬を徴発し隠す者は腰斬、四万余匹を徴収した。
  • 吏部尚書劉真が物資調達の責任の所在を批判する上書をしたところ虎は一度怒ったが、結局劉真に光禄大夫・金章紫綬を加えるという形で決着した。虎は宛陽で大規模な閲兵を行った。
  • 冬十月、慕容皝が幽冀を襲い、幽州刺史石光は籠城して出撃せず、皝は蠮螉塞から侵入して薊城に迫り、武遂津を破って高陽まで進み三万余家を掠めて去った。光は臆病を理由に召還され、代わって徴士辛謐が優遇された。
  • この月、挹婁国が使者を送り朝貢し、「牛馬が西南を向いて眠るのを見てから三年、大国の所在を知り遠路訪れた」と述べた。これに先立ち成漢の将李閎が晋から投降しており、李寿が「趙王石君」と題する書を送って返還を求めた際、中書監王波は「李閎を返せば蜀漢の宗族を帰服させる好機となり、失敗しても損はない。ただし李寿はすでに僭号しているので直書の答書にすべき」と進言し、挹婁国献上の楛矢石弩を添えて趙の威を示すよう勧めた。虎はこれに従ったが、李寿が誇示のため「羯の使者が朝貢した」と詔を発したことを知って激怒し、王波を庶人に落とした。
  • 虎は秦公韜を太尉とし太子宣と交代で尚書の奏事を専決させたため、司徒申鍾が「賞罰の権は君主のものであり人に仮すべきではない、太子は儲君として政に関わるべきでなく、権を分ければ周の子頽・鄭の叔段の乱のような禍を招く」と諌めたが虎は従わなかった。涼州牧張駿が別駕馬詵を遣わして朝貢したが、その上表文がやや傲慢だったため虎は激怒して馬詵を斬ろうとし、侍中石璞の諌めでようやく思いとどまった。

遼東方面への出兵と造営の開始(建武七年)

  • 建武七年(341年)冬十月、匈奴の劉務桓が入貢し虎は務桓を平北将軍・左賢王とした。横海将軍王華に海路から燕の安平を襲わせて破り、また北中郎将を遣わして盧奴に小城を築かせ、北榭・宮殿を新たに造らせた。

大規模造営と民の窮乏、韋謏の諌言(建武八年)

  • 建武八年(342年)夏四月、虎は馬不足を理由に民の馬の飼育を禁じ、隠す者は腰斬、四万余匹を徴収した。秋七月、襄国から鄴まで二百里にわたり閣道を築き四十里ごとに一宮を設け、各宮に夫人・侍婢数十人・宦官を配して行幸の便に供した。冬十二月には台観・行宮四十余ヶ所、さらに長安・洛陽に二宮を造営し、作業員は四十余万人に上った。南伐・西討・東征それぞれの軍需資材を諸州に課し、甲を造る者五十余万人、船夫十七万人を徴発したが、水難・猛獣の被害でその三分の一を失い、加えて公侯・牧宰の私利追求により農桑を保てる庶民は十戸に三戸のみとなった。貝丘の李弘は民の怨嗟に乗じて讖に応じると自称し姦党を結んだが発覚して誅殺され、連座数千家に及んだ。
  • 虎が際限なく狩猟にふけり自ら現場を視察して回ることを、侍中韋謏は「万乗の主は危険を軽んじるべきでない、白龍が魚に姿を変えて漁師に捕らえられた故事のように油断は禁物である。古の聖王が宮室を営むにも必ず農閑期を選んだのは農時を奪わないためであり、今のように耕作・収穫の時を問わず労役を課せば怨嗟が満ちる。昔漢の明帝は鍾離意の一言で徳陽殿の造営を中止した」と諌めた。虎はこれを善しとし穀帛を賜ったが、造営と遊猟は依然として盛んであった。

太子宣派の兵権掌握と「石虎」の瑞祥・妖異(建武八年)

  • 秦公韜が虎に寵愛されるのを太子宣は憎んでいた。五兵尚書を兼ね兵権を専らにしていた張離は宣に取り入ろうと「諸公侯の吏兵は定員超過している、儲君の威を高めるため削減すべき」と進言し、宣はこれに従い諸公府の吏兵を大幅に削減、余った兵五万を東宮に配属させた。これにより諸公の怨みと確執が深まった。江南攻略に向けた過酷な徴発により百姓は困窮を極め、子を売っても足りず道端で首を吊る者が相次いだ。
  • 折しも青州から、済南平陵城西北の「石虎」という岩が一夜にして城東南へ移動し、狼狐の足跡が踏み固めた道となったとの報告があった。虎は「石虎とは朕のことだ、天意は朕に江南平定を望んでいる」と喜び、諸州の兵を集結させて自ら六軍を率いる意向を示し、群臣は挙って祝賀した。同じころ、上党の神人出現、武郷での虎から狼への異変、泰山の石の炎、東海の大石の血、鄴西山の血流、太武殿の壁画が胡人の姿に変じる怪異など妖異が相次ぎ、虎はこれを秘したが仏図澄はそれを見て涙を流した。

慕容皝への敗戦と晋の北伐計画(建武九年)

  • 建武九年(343年)夏五月、虎自ら慕容皝を討ったが敗れた(晋の建元元年)。秋七月、晋の庾翼は胡(後趙)を滅ぼし蜀を取ることを己の任務とし、慕容皝・張駿と挙兵の時期を約した。朝議では困難視する声が多かったが庾冰・桓温らが賛成し、翼は桓宣を丹水へ進めさせ桓温を前鋒として北伐の態勢を整えた。虎配下の汝南太守戴開は投降した。晋の康帝は詔と檄文を発し、後趙の悪逆と慕容皝の勝利を天命の兆しとして中原回復の大義を訴えた。

涼州・鮮卑方面の攻防と申扁の専権(建武九年)

  • 八月、劉寧に武都の狄道を陥れさせ、太子宣は鮮卑の斛谷提を大破し首三万級を斬った。中謁者令申扁は虎と太子宣双方の寵を得て機密を専掌するようになり、虎が奏案を親覧しなくなるとともに、太子宣・秦公韜が酒色・遊猟に耽る中で生殺与奪はことごとく申扁が決するようになった。刺史・二千石の多くが彼の門から出、九卿以下も彼を憚ったが、鄭系・王謙・盧諶・崔約ら十余人だけは対等の礼を守った。九月、宇文逸豆帰が段遼の弟蘭を捕らえて送り駿馬一万匹を献上、蘭は鮮卑五千人を率い令支に駐屯した。冬十二月、張伏都に涼州の張駿を攻めさせたが謝艾に河西で大敗した。
  • 虎は昏虐でありながら経学を慕う一面もあり、石経の書写・中経の校訂・穀梁春秋の注釈を国子祭酒聶熊に命じ学宮に列させた。大司馬燕公斌は酒色と狩猟に溺れ取り巻きの横暴を招いていたが、張賀度の報告により虎は斌を鞭打ち三百のうえ免官とした。

隠者楊軻の逸話(建武十年)

  • 建武十年(344年)春正月、白雁数百羽が宮庭に飛来したが射て一羽も獲れず、太史令趙攬は「宮室が空になる前兆」と虎に告げ、虎は南征の軍を解いた。燕公斌を大司馬・録尚書事に復し、新たな武官位を多く設けた。
  • 二月、天水の隠者楊軻を召そうとした。楊軻は生涯妻を娶らず易学に専心し、粗衣粗食に安んじて悠然自得、弟子であっても入室の弟子でなければ親しく語らず、劉曜の招聘も固辞して隴山に隠棲していた人物である。虎が玄纁束帛・安車を尽くして招いても応じず、自ら訪ねても寝たまま起きず、強いて連れ出しても拝礼も会話もしなかった。虎が美女で誘惑させても、弟子を人質に脅しても、楊軻は動じることなく、裸のまま土の寝台に臥す暮らしぶりを世人に暴かれても恐れる色を見せなかった。人々はその深浅を測りかねたという。後に望郷の疏を上げて秦州に帰ることを許されたが、その地の兵乱に巻き込まれ、逃れる途中で戍軍に捕らえられ殺された。

太子宣の淫虐と王朗・王波の粛清、河橋建設の失敗(建武十年)

  • 夏四月、太子宣の淫虐は日ましに甚だしくなり、領軍将軍王朗がこれを虎に告げて労役を止めさせた。宣はこれを恨み、太史令趙攬に「熒惑が房宿を守るのは王姓の貴臣が祟りを受けるべき兆し」と虎に言わせ、王朗を陥れようとしたが虎は朗を惜しみ、結局中書監王波が生贄とされ、腰斬のうえ三子とともに屍を漳水に投じられた。後に虎は波の無実を憐れみ司空を追贈した。
  • 平北将軍尹農は燕の凡城を落とせず庶人に落とされた。大旱と白虹の異変が続き、虎は「古の明王は政を均平とし教化を仁恵の先(一に「本」に作る)としたゆえに天地の和を得た、朕の不徳と群臣の輔弼不足がこの変異を招いた」と自らを責める詔を発して鳳陽門を閉ざし元日にのみ開くこととした。成漢の李寿は五郡を挙げて投降した。冬十一月、霊昌津に河橋を築こうとしたが石が流されて完成せず、虎自ら視察した際に地震・洪水が起き楼台が倒壊して圧死者百余人を出し、工匠を斬って工事を中止した。

崔約と孫珍の逸話(建武十年)

  • 太子詹事孫珍が目の病を侍中崔約に相談したところ、親しさゆえの戯れで「小便に浸せば治る」「お前の目は落ち窪んでいるからちょうどよい」とからかわれ、これを恨んだ珍が太子宣に告げ口した。宣は自身も目が深く胡人めいた容貌であったため激怒し崔約父子を誅殺した。珍はこれにより宣の寵を得て朝政に関与するようになり、公卿以下は珍を憚った。

義陽公鑒の粛清と長安未央宮・巨大狩猟車(建武十一年)

  • 建武十一年(345年)春正月、関中を鎮めていた義陽公石鑒は側近李松の勧めで文武の臣下の髪を強制的に徴発し宮人に配ろうとしたことが露見、虎は激怒して鑒を鄴へ召還し李松を廷尉に下し、楽平公石苞を代わりに長安の鎮守とした。二月、雍洛秦并州から十六万人を徴発し長安の未央宮を築城した。
  • 虎は狩猟を好んだが肥満のため馬に跨れなくなり、費覇に工匠四千人を率いさせて巨大な獣狩り用の車を造らせた。轅の長さ三丈、高さ一丈八尺、三層の楼閣を備え二十人で担ぐこの車には回転する仕掛けが施され、獲物の方向に応じて座席ごと回転する構造であったという。霊昌津から滎陽・陽都に至る数千里を狩場とし、御史に管理させたが、これに乗じた役人の横暴により無実の民が獣を犯したと誣告され死に至る者が百余家に上った。

後宮女性の大量徴発とその惨状(建武十一年)

  • 豫荊兖など諸州から二十六万人を徴発して洛陽宮を修築する一方、後宮・東宮・諸公侯家の女官を大幅に増置するため、二十歳以下十三歳以上の百姓の娘一万余人を徴発した。郡県の役人が媚びへつらって美女を求めたため人の妻を奪う者が九千余人に及び、脅された百姓の妻の多くが自殺、太子・諸公も私的に女性を徴発してほぼ一万人が鄴宮に集められた。虎はこれを閲覧して喜び使者十二人を列侯に封じたが、この間に夫を殺されまたは奪われて自殺した者は三千余人、荊楚揚徐の民は流亡し尽きる勢いで、これを鎮められず処罰された地方官も五十余人に上った。金紫光禄大夫逯明が諫言して激怒され、龍騰に引き裂き殺されるという事件も起き、以後朝臣は口を閉ざすのみとなった。

晋将の投降と対燕・対晋の軍備(建武十一年)

  • 秋八月、晋の路永が郡を挙げて投降し征西将軍として寿春に置かれた。冬十二月、姚弋仲を持節十郡六夷大都督・冠軍大将軍とし、鄧恒に楽安で攻城具を整えさせ燕討伐に備えた。この年、晋の桓宣が虎の将李羆を丹水で破ったとの記事もある。