十六国春秋後趙錄五 石虎(上)
石勒の従子で寇覔の四男、石虎(字は季龍)。少年時代から残忍で乱暴が過ぎ、勒に始末を考えられたほどだったが、勒の母に庇われて命を保った。陥落させた城の民を穴埋めにするなど酷薄な一方、武勇と統率力を高く評価されて勒の主力として重用された。大単于の号を石弘に与えられたことを深く恨み、勒の死後に弘を廃して居攝趙天王を称し、鄴へ遷都して空前の奢侈をきわめる宮殿群を築いた。太子邃を粛清し、鮮卑段遼を降す一方で慕容部には大敗するなど、対外戦にも明暗があった。
年表(5件)
- 永嘉五年(311年)十七歳のとき、劉琨により勒の母王氏と共に石勒のもとへ送り届けられる
- 建武元年(335年)石弘を廃したうえで群臣の勧進を受け、居攝趙天王を称して子の邃を太子に立てる
- 建武二年(336年)鄴へ遷都し、洛陽の鐘虡・銅駝などを運び込んで太武殿以下の壮麗な宮殿群を築く
- 建武四年(338年)仏図澄らの反対を押し切って燕の慕容皝を攻めるが、慕容恪の奇襲を受けて自ら大敗
- 建武四年(338年)魏の烈帝翳槐が没し、人質の昭成帝什翼犍を迎えに来た孤の義に感じて両者を帰す
出自と若年期の残虐性
- 石虎、字は季龍。石勒の従子(父方の従兄弟の子)で、寇覔の四男。幼少より剛勇の相ありと評され、永嘉五年(311年)、劉琨が勒の母王氏と共に虎(当時十七歳)を勒のもとへ送り届けた。残忍で狩猟・遊興を好み、しばしば人を弾で傷つけるなど乱暴が過ぎたため、勒は「この子は凶暴が過ぎる、いっそ自分で始末してしまおうか」と母に相談したが、母は「駿馬も若いうちは車を壊すもの、しばらく辛抱せよ」と諭して虎を守った。
- 十八歳を過ぎると多少落ち着いたものの、陥落させた城では善悪の区別なく民を穴埋め・斬殺するなど酷薄さは変わらなかった。勒はたびたび叱責しつつも、その武勇と統率力を高く評価して重用し続け、征虜将軍・魏郡太守などを歴任させた。
大単于号を巡る不満
- 勒が趙王・皇帝に即位する過程で数々の武功を立てたにもかかわらず、大単于の号は勒の子𢎞に与えられ、虎はこれを深く恨み、子の邃に「趙の大業を築いたのは自分だというのに、幼子に単于の号を奪われた、主上が亡くなればこの一族を生かしてはおかぬ」と漏らしていたという。
建武への改元と天王即位
- 建武元年(335年)、𢎞を廃した虎は群臣の勧進を受けたが「皇帝の号は身に余る」として「居攝趙天王」を称するにとどめた。太尉夔安ら重臣を任命し、子の邃を太子に立てた。
鄴への遷都と大宮殿造営
- 建武二年(336年)、鄴へ遷都し、洛陽の鐘虡・銅駝など多くの宝物・記念物を運び込ませた。以後、太武殿・九華宮・逍遥楼・玳瑁楼をはじめとする壮麗極まりない宮殿群を築き、金銀珠玉をふんだんに用いた調度、数千人規模の宮女、女性のみの鼓吹楽隊、曲芸・軽業の見世物、皇后と共に千騎の女騎兵を従えた行幸など、空前の奢侈を極めた(原文には調度品・衣装・楼閣の意匠に至るまで詳細な列挙が伝わるが、ここでは概要にとどめる)。
内政・対外関係
- この間も度量衡・選挙制度(九品官人法に倣う)の整備、飢饉対策(倉庫の放出、代納制度)などの内政に努める一方、たびたびの旱魃・蝗害・物価高騰に見舞われ、民の困窮は深刻であった。索頭(拓跋部)の郁鞠ら三万人が帰順するなど北方諸族の帰順も相次いだ。
太子邃の廃嫡と粛清
- 太子邃は次第に虎の寵愛する河間公宣・楽安公韜を憎悪し、また虎自身の乱行・過酷な叱責への恨みも重なって謀反を企てた(詳細は邃伝に記載)が発覚。虎は激怒して邃とその妃張氏ら二十六人を殺害し一棺に合葬、邃の一党二百余人も誅殺した。河間公宣が新たな皇太子に立てられた。
鮮卑段遼・慕容部との攻防
- 建武四年(338年)、虎は鮮卑段遼討伐の大軍を興し、遼の配下の城を次々に降し密雲山で遼の母・妻を捕らえるなど圧倒した。遼は最終的に降伏を申し出た。この過程で、当初協力を約していた慕容皝が援軍を出さなかったことに激怒し、仏図澄や太史令趙攬の反対(「燕はまだ討つべきではない、討てば禍を受ける」)を押し切って燕(慕容部)攻めを強行したが、慕容恪の奇襲を受けて虎自身が大敗、石閔(後の冉閔)の軍のみが無事であったという。
- 段遼はその後も虎と慕容皝の双方を手玉に取ろうと画策し、偽って虎に降ると見せかけて麻秋の軍を慕容恪の伏兵にかけて大敗させたが、最終的に虎に帰順した。
仏教政策をめぐる論争
- 仏図澄への帰依から民間で出家者が急増したため、虎は中書令に是非を諮問。中書著作郎王度らは「仏は西域の神であり、天子や漢人が祀るべきものではない、後漢明帝以来西域人の寺院建立のみを許し漢人の出家は禁じてきた、旧制に従い漢人の寺院参詣・出家を禁ずべきだ」と上奏したが、虎は「自分は北方の出身で中華の伝統に縛られる立場にない、仏は戎族の神であり自分が奉じるのは当然だ」としてこれを退け、禁令を出さなかった。
鮮卑代(拓跋部)の情勢
- この年、魏の烈帝(諱は翳槐)が病没し、後継の昭成帝什翼犍は当時趙への人質として遠方にあったため、重臣たちは烈帝の弟・屈を殺して代わりに温和な孤を擁立しようとしたが、孤は「兄が本来継ぐべきだ、自分が順序を越えて即位するわけにはいかない」と固辞し、自ら鄴へ赴いて昭成帝を迎え、代わりに自身を人質として差し出した。虎はその義に感じ入り両者を共に帰した。