十六国春秋前趙錄四 劉聰(下)

麟嘉二年の凶兆と東平王約の蘇生譚(316年)

  • 黒い霧、東宮や光極殿への血の雨、東宮の門が独りでに壊れるなど怪異が相次ぐ。大将軍東平王劉約が急死したが五日後に蘇生し、冥界(不周山・崑崙山)で亡き父劉淵と再会し、先に死んだ一族の者たちが皆「䝉珠離國」で暮らしていると聞いたと語った。道中出会った「猗尼渠餘國」の王からは、後年「遮須夷國」の王として来訪するはずの劉聰に宛てた玉璧を託されたという。
  • 赤い虹、三つの太陽が並んで照る、客星が紫微垣に入るなどの天変も続いた。太史令康相は「石勒・曹嶷ら東方勢力が台頭し、やがて天下は三分される兆しであり、南の呉・蜀よりも東方の脅威にこそ備えるべきだ」と進言したが、聰は不快に思い聞き入れなかった。

滎陽をめぐる攻防

  • 聰の従弟劉暢が滎陽太守李矩を攻めたが、矩は偽って投降を申し出て油断を誘い、夜襲で暢の軍を大敗させた。郭黙の援軍も加わり、暢はわずかな手勢で敗走した。

皇太弟劉乂の粛清

  • 相国劉粲配下の王平が偽の詔を東宮に伝え、乂の側近たちに武装させた。これを謀反の証拠として靳準・王沉らが聰に讒言し、聰は氐羌の酋長たちを拷問して乂との共謀を自白させた。乂に親しかった大臣・東宮官属数十人が誅殺され、乂自身も北部王に落とされたのち靳準に殺害された。連座した兵士一万五千余人も生き埋めにされ、平陽の街から人影が消えるほどだったという。人望のあった乂の死を聰は深く悲しんだと伝わる。

晋の愍帝の屈辱と死

  • 冬、聰は捕虜としていた晋の愍帝に、狩りの先導や酒の給仕、傘持ちなどの屈辱的な役目を負わせ、これを見た晋の旧臣たちは涙した。皇太子劉粲は「司馬氏残存勢力に大義名分を与えぬためにも、早く始末すべきだ」と進言し、聰もこれを容れて愍帝を処刑した。臨終に立ち会った侍中許肅の忠節ぶりが特筆されている。

趙固・李矩との攻防

  • 趙固と河内太守郭黙が聰領内に攻め込んだが撃退される。聰は太子粲に大軍を委ねて趙固討伐に向かわせた。麟嘉三年(317年)、李矩は郭黙・郭誦を派遣して趙固を救援させ、夜襲によって粲の陣営を大破した。その後范隆の援軍が加わり一進一退の攻防となったが、最終的に李矩配下の耿稚らは大きな損害を出しつつ撤退した。

宮中の怪異と皇后冊立をめぐる諫言

  • 宮殿の火災で東平王約以下二十一人が死去するなど不吉な出来事が続き、宮中では鬼哭が絶えなかったという。聰は中常侍王沉の養女(十四歳)を皇后に立てようとしたが、尚書令王鑒・中書監崔懿之らは「卑賎の出の女を皇后とすれば漢の外戚の禍を繰り返す」と強く諫めた。聰は激怒してこれを処刑し、刑場でも王鑒・崔懿之は靳準・王沉を厳しく罵ったと伝わる。

劉聰の死(318年)

  • 病床で亡き東平王約の姿を見た聰は「死してなお霊あるならば恐れることはない」と語ったという。石勒・劉曜を丞相・大将軍に任じようとしたが固辞されたため、上洛王景を太宰、済南王驥を大司馬とするなど改めて体制を整えた。太興元年(318年)秋七月、在位九年で崩御。宣光陵に葬られ、諡は昭武皇帝、廟号は烈宗。