十六国春秋前趙錄三 劉聰
平陽を都とした皇帝劉聰。子の劉粲を相国・大単于として国政を委ね、中山王劉曜を関中に、石勒を陝東に用いて西晋の残存勢力を圧迫した。316年には長安を陥れて晋の愍帝を降伏させ、華北の主導権を握った。一方で三后並立をはじめ後宮の秩序を乱し、王沈ら宦官の専横を許して忠臣を相次いで失い、飢饉と流亡で国内を疲弊させた。
年表(20件)
- 嘉平四年314年平陽で異象が相次ぎ、怪異ののち劉皇后が没する(諡は武宣)
- 314年相国の官を新設して官制を大幅に拡充し、劉粲を丞相・大将軍として晋王に進封
- 314年劉曜・趙染が長安を攻めるが索綝に大敗し、諫めた長史魯徽を趙染が斬る
- 314年郭黙救援に来た郭誦の夜襲で劉曜軍が大破され、秋に趙染が麴允に迎撃されて戦死
- 314年劉粲を相国・大単于・総百揆とし丞相を相国に併合、劉曜を召還して朝政を輔けさせる
- 建元元年315年太廟の完成を機に大赦して建元と改元し、のち血の雨の怪異が起こる
- 315年挙兵を勧めた崔瑋・許遐を誅殺し、太弟劉乂を東宮に幽閉して朝賀を禁じる
- 315年靳凖の女月光を皇后に立て、のち三后を並立させて陳元達の諫めを退ける
- 315年曹嶷が斉魯一帯を制するが、石勒の討伐上表を制御困難を恐れて許さない
- 315年劉曜が河南に出て李矩を降し、不品行の露見した上皇后靳氏を廃して自殺させる
- 315年劉曜が襄垣で劉琨軍を破り、九月に石勒を陝東伯に冊命して征伐と官吏任免の権を与える
- 315年劉曜が北地・上郡を攻めて関右を制圧し、長安の百官は飢餓に苦しむ
- 麟嘉元年316年王沈ら側近が寵幸を恣にし、国政は事実上相国劉粲に一任される
- 316年郭猗・靳凖が太弟劉乂の謀反を粲に讒言し、東宮の守備を解かせる策を進める
- 316年綦毋達ら大臣を次々誅殺し、諫めた河間王易は憤死、陳元達も自ら命を絶つ
- 316年麴允が磻石谷で大敗し北地が陥落、劉曜は渭北諸城を制圧する
- 316年切諫を繰り返した大将軍渤海王劉敷が罵倒され、憂憤のうちに病没する
- 316年河東の大蝗害で平陽は飢饉に陥り、石勒は詰問に従わず曹嶷と結んで鼎立の構えを見せる
- 316年劉曜が長安を包囲して外城を陥とし、十一月に晋の愍帝が肉袒して降伏する
- 316年愍帝を懐安侯に封じ、慟哭した麴允は獄死、索綝は東市で処刑され、麟嘉と改元
嘉平四年の凶兆と劉皇后の死
- 嘉平四年(314年)正月、平陽では三日並出・地震・崇明観の陥没(水が血のように赤変)・赤龍・大流星など異象が相次ぎ、ついには平陽の郊外に長さ三十歩・幅二十七歩に及ぶ肉塊が出現し、昼夜を問わず泣き声のようなものを発し続けた。
- 劉聰が群臣に卒直な意見を求めたところ、廷尉陳元達・博士張師らは「この星変の禍は遠からず及ぶ」と述べ、後宮に三后並立のような事態が起きれば亡国の兆しになると諫めたが、聰は陰陽の理に過ぎないとして取り合わなかった。
- 同月、劉后が地虫や虎に似た怪物を産み、それが人を害して逃げ去るという怪異が起きた後、まもなく劉后は没した(諡は武宣)。以後、寵姫たちが競って後宮の権勢を争い、秩序が乱れていく。
官制改革と皇族・重臣の任命
- 夏四月、聰は驃騎大将軍河間王易を太尉とし、新たに相国の官を置いて功績抜群の大臣の没後に贈るものと定めた。これを機に太師・丞相以下、上公・大将軍・都護・内史(四十三員)・単于左右輔(六夷十万落を統轄)など官制を大幅に拡充した。
- 子の始安王粲を丞相・大将軍・録尚書事とし晋王に進封、江都王延年を録尚書六条事、汝陰王景を太師、王育を太傅、任顗を太保、馬景を大司徒、朱紀を大司空、中山王曜を大司馬とするなど、一族と重臣を要職に配した。
趙染・劉曜の関中侵攻と長安攻防
- 五月以降、中山王曜と趙染が長安の晋勢力(征東大将軍索綝ら)を攻める。染は連勝に驕り、長史魯徽の慎重論を退けて突撃し索綝に大敗、怒りにまかせて諫言した魯徽を斬った。魯徽は死に際に染の非を痛烈に責めたという。
- その後も曜・染は殷凱と共に長安へ再攻するが、安夷護軍麴允に馮翊で撃退され、殷凱は討ち死にした。
郭黙の懐城籠城と劉琨・李矩の救援
- 曜は河内太守郭黙を懐城に囲み、貯穀を奪って兵糧攻めにした。黙は妻子を人質に出して糴(穀の購入)を請い、糴い終えるとまた籠城を続けたため、曜は怒って人質を河に沈め攻撃を強めた。
- 黙は弟の郭芝を通じて劉琨に救援を求めるが、劉琨は黙の狡猾さを警戒して出兵を渋る。黙は石勒にも援けを求めつつ、包囲を突いて新鄭の李矩のもとへ逃れようとした。李矩の甥郭誦は寡兵で動けなかったが、劉琨配下の鮮卑五百騎(張肇率いる)が長安への途上で懐城付近に姿を見せたため、曜方は鮮卑を恐れて退いた。その隙に郭誦が夜襲を敢行し曜軍を大破、黙は李矩のもとに合流して曜に対抗した。
- 聰は「長安と劉琨こそ討つべき本命であり、郭黙のような小者に労力を割く必要はない」として曜を召還、貝丘王翼光に守備を任せ、曜は蒲阪に帰陣した。秋七月には趙染が北地に侵攻するが、麴允に迎撃され、染は弩に当たって戦死した。
相国粲の大単于兼任と冬の凶兆
- 冬十一月、晋王粲を相国・大単于・総百揆とし丞相の職を相国に併合、中山王曜を召還して朝政を輔けさせた。この頃、平陽で地震・暴風・家屋倒壊・汾水の氾濫が相次ぎ、羊が奇形の双頭子を産み兄がそれを食べて三日で死ぬという凶事も伝えられた。
建元改元と血の雨
- 建元元年(315年)正月、聰は太廟の完成を機に大赦・改元した。三月には左司隷寺、続いて東宮延明殿に血の雨が降り、屋根瓦が地に深く沈むほどであったという。
崔瑋・許遐の誅殺と太弟劉乂の幽閉
- 太傅崔瑋・太保許遐は太弟劉乂に対し、「主上(聰)の真意はすでに晋王粲に位を譲ることにあり、相国の地位も本来臣下のものではない。今のうちに手を打たねば廃されるだけでなく身の危険もある」と説き、兵力の差から見て挙兵は十分可能だと勧めたが、乂はこれに従わなかった。
- 夏四月、東宮舎人荀裕がこの謀議を聰に密告。聰は崔瑋・許遐を捕らえ別件を口実に誅殺し、冠軍将軍卜抽に命じて東宮を監視させ、乂の朝賀出席も禁じた。乂は憂懼して官爵を返上し庶人になりたいと上表、晋王粲こそ後継にふさわしいと述べたが、卜抽に握りつぶされ聰には届かなかった。
靳氏姉妹の寵愛と三后並立
- 聰は護軍靳凖の邸を訪れ、その二女(月光・月華)を後宮に納れ、いずれも国色の美女であった。五月、月光を皇后に立てた。
- のちに聰は靳皇后を上皇后、左貴妃劉氏を左皇后、右貴妃劉氏(一本には月華に作る)を右皇后として三后を並立させた。左司隷陳元達は礼に反するとして強く諫めたが聰は聞き入れず、かえって元達を右光禄大夫に遷して実権を奪おうとした。これに対し太尉范隆・大司空呼延晏・尚書令王鑒らが揃って自らの職を元達に譲ろうと上表したため、聰はやむなく元達を御史大夫・儀同三司に戻した。
曹嶷の斉地平定と石勒との確執
- 青州刺史曹嶷は汶陽・関公丘を陥落させ、斉郡太守徐浮を殺し建威将軍劉宣を捕らえるなど斉魯一帯の四十余の郡県城壁を降し、西進して祝阿・平陰を占領、全斉を制する野心を露わにした。
- 石勒は曹嶷の離反傾向を理由に討伐を上表したが、聰は石勒が曹嶷を滅ぼせばさらに制御が困難になることを恐れて許可しなかった。
劉曜の河南出兵と上皇后靳氏の廃黜
- 中山王曜は盟津を渡って河南へ進み、滎陽の李矩を攻め、その将李平を城皋で破った。李矩は恐れて人質を送り降伏を請うた。
- 曜は再び長安を攻めるが晋の官軍に度々敗れ、なお強盛と見て兵を引いた。この頃、東宮宣光陵で血の雨が降り、石人が数歩歩いたとされ、宮中では夜な夜な泣き声が聞こえたという。
- 上皇后靳氏に不品行が発覚し、陳元達がこれを奏上。聰はやむなく靳氏を廃したが、靳氏は恥辱のあまり自殺した。聰は元達の諫言に押されて廃后したことを、のちのちまで恨みに思ったという。
劉曜の上党・上郡侵攻と石勒の陝東伯任命
- 六月、大司馬中山王曜は上党を攻め、八月には襄垣で劉琨軍を破った。曜はさらに陽曲へ進もうとしたが、聰は「長安の平定こそ先決」として召還し、曜は郭邁を滅ぼして凱旋、蒲阪に駐屯した。平陽では再び地震と血の雨が続いた。
- 九月、聰は大鴻臚辺鴻を遣わして石勒に弓矢を賜い、陝東伯に冊命して征伐・官吏任免の権を独自に与えた。
長安包囲戦の激化
- 冬十月、曜は粟邑に進み北地を攻める。晋の愍帝は麴允を大都督・驃騎将軍として迎撃させたが、曜は馮翊を抜き太守梁肅は敗走した。長安の百官は飢餓に苦しみ、愍帝はしばしば相国司馬保に援兵を求めたが、保の側近は「毒蛇に噛まれれば腕を切るべき」と隴道遮断を進言、従事中郎裴詵の反論もあったが、保は前鋒都督胡崧を出しつつ諸軍の集結を待って動かなかった。麴允は愍帝を司馬保のもとへ移そうとしたが、索綝は「保が天子を得れば私欲を逞しくするだけだ」と止めた。曜はさらに上郡を攻め太守張禹を敗走させ、関右一帯を制圧して黄阜まで進んだ。
- 十二月、聰の武庫が地中に一丈五尺も陥没する怪異があった。また并州祭酒桓囘が路上で亡き楽人成憑の旧友と名乗る老人に出会い、姿を消したという奇談が伝わり、成憑のために祝文を作って祀ったという逸話も残る。
麟嘉改元と宦官専横
- 麟嘉元年(316年)正月、中常侍王沈・宣懐俞容・中宮僕射郭猗・中黄門陵脩ら側近が寵幸を恣にし、聰は後宮に市場まで設けて遊興に耽り、時に何日も政務を顧みなかった。国政は事実上相国粲に一任され、生殺与奪の決裁のみ王沈らを通じて奏上されたが、彼らは私意で取捨し、功臣が抜擢されない一方で佞人が数日で高位に昇るなど、賞罰は乱れ、一族三十余人が内史に任じられるなど縁故人事が横行した。
郭猗・靳凖による太弟劉乂讒害の謀
- 靳凖はかつて従妹(劉乂の側室)の不倫を乂に処断されたことを深く恨んでおり、以前から粲に「相国の実権を持つ以上、いずれ東宮の位も自ら継ぐべきだ」と唆していた。
- 郭猗・靳凖はともに太弟乂に含むところがあり、粲に対し「乂は大将軍・衛軍と結んで上巳の宴に乗じ挙兵を企てている。事が成れば主上を太上皇、大将軍を皇太子、衛軍を大単于とする密約まで交わされている」と讒言し、早期の排除を勧めた。
- 郭猗は大将軍従事中郎王皮・衛軍司馬劉惇を脅して虚偽の自白を仕込み、粲が別々に尋問しても口裏が完全に一致したため、粲はこれを事実と信じ込んだ。靳凖はさらに、乂への監視を緩めて交遊を許し、これに応じた軽薄者たちを後で摘発して自白を取り、「無将の罪」(謀反の意図を持った罪)で乂を陥れる策を献じ、粲はこれを容れて卜抽に東宮の守備を解かせた。
忠臣粛清と重臣の諫言
- 二月、聰は秋閣に出て特進綦毋達・大中大夫公師彧・尚書王琰・田歆・少府陳休・左衛卜崇・大司農朱誕ら、宦官一派に憎まれていた大臣たちを次々誅殺した。侍中卜幹は秦や晋の故事を引いて安易な誅戮を諫めたが、王沈に「詔に逆らうのか」と難詰され、聰は聞き入れず卜幹を庶人に落とした。
- 太宰河間王易・大将軍渤海王敷・御史大夫陳元達・金紫光禄大夫西河王延らは連名で上表し、王沈らの専横と讒言による冤罪、天変地異が宦官政治への戒めであることを説き、このまま放置すれば手遅れになると訴えて政務を正すよう求めた。聰はこの上表を王沈らに見せただけで放置し、王沈らが涙ながらに忠誠を訴えると粲の口添えもあって聰は感激し、逆に王沈らを列侯に封じた。
- 河間王易がなお強く諫めたため聰は激怒して上表を引き裂き、易は憤死。盟友を失った陳元達もその死を悼んで慟哭し、自ら命を絶った。
北地陥落と忠義の死
- 夏五月、曜は上郡を攻め太守韋藉は南鄭へ逃れた。秋七月、曜は再び北地を攻め、太守麴昌は大都督麴允に急を告げる。允は黄白城から霊武に移るが兵が弱く進めず、その間に北地は深刻な飢饉に陥り人が人を食う惨状となった。羌の酋長大軍須が糧を運ぼうとするが将軍劉雅に撃退され、允はようやく三万の兵を率いて救援に向かうも、曜方の火計と偽情報(「城はすでに陥落した」との流言)に惑わされ軍が崩れ、磻石谷で大敗して霊武へ敗走、北地は陥落した(麴昌は突囲して長安へ逃れた)。かねて允が助力を求めた安定太守焦嵩は「窮まってから助ける」と嘲弄して動かず、後に自らも曜に滅ぼされている。
- 曜はさらに涇陽まで進み渭北諸城を制圧、晋の建威将軍魯充・散騎常侍梁緯・少府皇甫陽らを捕らえた。曜は魯充の賢を惜しみ酒を賜って登用しようとしたが、充は晋臣としての節義を貫き速やかな死を望んだため、曜は「義士なり」として剣を与え自裁させた。
- 梁緯の妻・隴西辛氏は美貌で知られ、曜は緯を殺した後に娶ろうとしたが、辛氏は「二夫に仕えず」と拒み、舅姑への務めを果たしてから死にたいと号泣して訴えた。曜は「貞女なり」としてその意を汲み、辛氏も自ら命を絶ったため、いずれも礼をもって葬った。
大将軍劉敷の死と国政の混乱
- 聰は樊氏(もと張皇后の侍婢)を上皇后に立てるなど、正式な四后のほかにも皇后の璽綬を帯びる者が七人にのぼり、朝廷の秩序は乱れ、賄賂が公然と行われ、出征のたびに飢饉と疫病が広がり、後宮への褒賞は巨額に上った。大将軍渤海王敷はしばしば涙して切諫したが聰は逆上して罵倒し、敷は憂憤のあまり病を発して没した。
蝗害と流民、石勒の離反傾向
- 六月、河東で大蝗害が起き、蝗は黍豆だけは食わなかった。司隷靳凖が民を動員して蝗を埋めさせたところ地中から泣き声が聞こえ、やがて土を破って飛び出し再び黍豆を食い荒らしたという。平陽は深刻な飢饉に陥り民の五、六割が流亡・死没した。
- 石勒は将軍石越に二万騎を率いさせ并州に駐屯、流民を招撫させたが、聰が黄門侍郎喬詩を遣わして詰問しても勒は従わず、ひそかに曹嶷と結んで鼎立の構えを見せた。司隷管内から冀州へ逃れた戸数は二十万戸に及んだという。
凶兆の相次ぐ出現
- 秋七月、相国府・東宮・司隷・御史台などの門で犬と豚が交わるという怪異が続き、豚が進賢冠を、犬が武弁と綬をつけて聰の御座に上り、殿上で闘死するという事件も起きたが、聰はなお驕慢を改めなかった。八月、聰は光極殿で群臣を饗し太弟乂を召したところ、乂はやつれ果てた姿で涙ながらに謝罪し、聰も感涙して酒宴を続け、以前と変わらぬ待遇を示した。
長安陥落と愍帝の降伏
- 九月、曜は長安を包囲し内外の連絡を断った。晋の焦嵩・宋哲・竺恢らの援軍、華輯の四郡兵はいずれも曜の強勢を恐れて進めず、相国司馬保配下の胡崧のみが霊台で曜を破ったが、晋勢力が盛り返せば麴允・索綝の勢力が強まることを恐れて渭北で兵を止め、槐里に退いた。
- 冬十月、曜は長安の外城を陥落させ、麴允・索綝は内城に籠って抵抗するが、城内は深刻な飢饉で人が人を食い、涼州からの義勇兵千余のみが死守した。糧は麴(酒麴)数十枚のみとなり、麴允はこれを砕いて粥にして帝膳に供したが、それも尽きた。
- 十一月、愍帝は麴允に「もはや支えきれぬ、社稷に殉じるほかない。城が陥ちる前に自ら降ることで民を虐殺から救いたい」と告げ、「私を誤らせたのは麴・索の二公だ」と嘆いて侍中宋敞(『資治通鑑』紀事本末には宗敞と作る)を遣わし降伏を申し出た。索綝はひそかに使者を留め、自分に車騎将軍・儀同・万戸郡公の待遇を約するなら城を明け渡すと曜に持ちかけたが、曜はこれを許さず使者を斬って送り返し、「私は詭計で人を欺いたことはない、天命に従い正しく事を決すべきだ」と正論を説いた。
- 甲午、宋敞が曜の陣営に至り、翌乙未、愍帝は肉袒し羊を牽き棺車に乗って璧を銜え、長安東門から出て降伏した。群臣は号泣して輿にすがり、御史中丞吉朗は「君臣ともに北面して異民族に仕えるに忍びない」として自殺した。曜は璧を受け取り棺を焼き、宋敞に帝を伴わせて宮に戻した。かつての童謡「天子何在 豆田中」が、曜の陣営が城東の豆田壁にあったことと符合したという。
麴允・索綝の最期と麟嘉改元
- 丁酉、愍帝と司徒梁汾・驃騎麴允・奮威索綝ら百余名の官が曜の陣営に移され、辛丑に平陽へ到着。壬寅、聰は光極殿で愍帝を引見し光禄大夫・懐安侯に封じたが、麴允は伏して慟哭し立ち上がれず、聰は怒って獄に投じ、允は憤死した。聰は後にその忠烈を惜しみ車騎将軍を追贈し節愍侯と諡した(允は金城の人で、游氏と並ぶ名族であったという)。
- 一方、聰は旧主に対する不忠を理由に索綝を東市で処刑し、尚書梁允・侍中梁濬・散騎常侍厳敦・左丞相臧振・黄門侍郎任播・張偉・杜曼ら諸郡太守も曜によって殺された。華輯のみ南山へ逃れた。
- 聰は曜を使持節・仮黄鉞・大都督陝西諸軍事・太宰・秦王とし、相国粲を太廟に遣わして戦勝を告げさせ、境内に大赦を行い麟嘉と改元した。