十国春秋十國春秋卷一百十二 十國地理表下

南漢の府州と属県

  • 興王府(廣州。高祖の乾亨元年(917年)に廣州を興王府と改める。領県十二)
  • 咸寜(旧くは南海。乾亨元年に分けて咸寜・常康の二県とした。『宋史』地理志には、南海は隋の県で後に常康と改め、開寳五年(972年)に復すとある。歐陽忞『輿地廣記』は開寳五年に咸寜・常康を南海に併合したとし、説が一致しない。今は『廣東志』に従う)、常康(上に見える)、番禺(旧県)、増城(旧県)、四㑹(旧県)、化蒙(旧県)、懐集(旧県)、東莞(旧県。県の西に鎮象塔があり、禹餘宮使の邵廷琄が造ったもの。また城内に九曜石があり、劉氏が方士を集めて丹を煉った処と伝える。いずれも呉萊『南海古蹟記』に見える)、清逺(旧県)、洊水(旧県)、浛涯(旧県)、新㑹(旧県)、義寜(旧県)
  • 韶州(領県五)曲江(旧県)、始興(旧県。『郡縣釋名』は南漢の乾和四年(946年)に韶州の始興・湞昌二県を分けて雄州を置き英州に配したとするが、宋の開寳四年(971年)に始興が初めて南雄州に属したのであって、この説は非)、仁化(旧県)、翁源(旧県)、樂昌(旧県)
  • 潮州(領県二)海陽(旧県)、潮陽(旧県)
  • 禎州(南漢が循州の歸善県に禎州を置き、歸善・海豐・博羅・河源の四県を来属させた。歐史職方考は惠州に作るが、宋の天禧のとき州名が太子の名を犯すとして初めて惠と改めたのであり、五代のとき惠州は無かった)歸善・海豐・博羅・河源(いずれも旧県)
  • 循州(南漢が旧循州を禎州と改め、別に北境に循州を立てた。領県一)龍川(旧くは雷鄉県。南漢が今の名に改める。歐陽忞はまた、龍川はもと秦の県で唐が河源に併合し、南漢が復置して循州の治としたという)
  • 齊昌府(乾亨元年(917年)に循州の興寜県を齊昌府へ昇格)
  • 封州(領県二)封川・開建(いずれも旧県)
  • 端州(領県二)髙要・平興(いずれも旧県)
  • 英州(高祖が廣州の湞陽県を割いて置く)湞陽(旧県)
  • 雄州(高祖が韶州の保昌県を割いて置く)保昌(旧県)
  • 敬州(乾和のときに潮州の程鄉県を割いて敬州を置く。恭州に作るのは非で、恭は宋が廟諱を避けて称したもの)程鄉(旧県)
  • 康州(領県四)端溪・晉康・悅城・都城(いずれも旧県)
  • 恩州(領県三)楊江・恩平・杜陵(いずれも旧県)
  • 思州(領県四)務川・寜彛・思卬・思三(いずれも旧県)
  • 瀧州(領県五)瀧水・開陽・鎮南・安遂・建水(いずれも旧県)
  • 勤州(領県二)富林・銅陵(いずれも旧県)
  • 新州(領県二)新興・永順(いずれも旧県)
  • 高州(領県三)良徳・電白・保定(いずれも旧県)
  • 潘州(領県三)茂名(梁の開平元年(907年)五月に越常と改め、南漢の乾亨七年(923年)十月にまた茂名と改める。一名を茂明)、南巴(旧県)、潘川(旧県)
  • 常州(領県三)海康・遂溪・徐聞(いずれも旧県)
  • 羅州(領県五)石城・吴川・南河・招義・零緑(いずれも旧県)
  • 辨州(唐の天祐元年(904年)に朱全忠が「辨」と「汴」の音が近いとして勲州と改め、のち旧に復す。領県二。案ずるに辨州は宋の太平興國五年(980年)に化州と改めたので、化州は旧の辨州である。しかも化州の名は五代には無かった。歐史職方考が辨州を挙げながら化州も列するのは誤りと分かるので、今は従わない)石龍・陵羅(いずれも旧県)
  • 邕州(旧くは邕州。領県七。光天元年、すなわち晋の天福七年(942年)に誠州と改める、廟諱を避けたもの。まもなく旧に復す)宣化・武縁・晉興・朗寜・思龍・如和・封陵(いずれも旧県)
  • 澄州(領県一)上林(旧県)
  • 春州(領県三)陽春・羅水・流南(いずれも旧県)
  • 貴州(領県四。高祖が子の𢎞道を封じて貴王としたのがこの州)鬱平・懐澤・義山・潮水(いずれも旧県)
  • 巒州(領県三。宋の開寶五年(972年)に初めて州を廃して横州に併合。歐史職方考がその名を列さないのは誤り)永令・武羅・靈川(いずれも旧県)
  • 横州(領県三)寜浦・淳風・樂山(いずれも旧県)
  • 賔州(領県三)領方・琅邪・保城(いずれも旧県)
  • 欽州(領県五)欽江・靈山・遵化・内亭・保京(いずれも旧県)
  • 潯州(領県二)平桂・宣化(いずれも旧県)
  • 容州(領県四)北流・普寜・陵城・渭龍(いずれも旧県)
  • 牢州(領県三)南流・定川・岩川(いずれも旧県)
  • 白州(領県四)博白・建寜・周羅・南昌(いずれも旧県)
  • 亷州(領県四)合浦・封山・蔡龍・大亷(いずれも旧県)
  • 常樂州(高祖の乾亨元年(917年)に常樂州を立て、博電など三県を置く。歐陽忞『輿地廣記』は常樂州は南漢の立で、宋の開寳五年(972年)に州を廃し県を省いてその地に石康県を置いたという)博電・零緑・鹽場(いずれも乾亨初の置)
  • 黨州(領県四)善勞・撫安・善文・寜仁(いずれも旧県)
  • 繡州(領県三。宋の開寳五年(972年)に初めて州を廃して容州の普寜県に併合。歐史職方考がその名を列さないのは誤り)常林・阿林・羅繡(いずれも旧県)
  • 鬰林州(領県五)石南・鬰林・興業・興徳・潭栗(いずれも旧県)
  • 藤州(領県四)寜風・感義・義昌・鐔津(いずれも旧県)
  • 竇州(領県四)信義・懷徳・潭峩・時亮(いずれも旧県)
  • 義州(領県三)岑溪・永業・連城(いずれも旧県)
  • 禺州(領県三。宋の開寳五年(972年)に初めて州を廃して容州に併合)峩石・陸川・扶桑(いずれも旧県)
  • 順州(唐の大厯八年(773年)に禺・羅・辨・白の四州を分けて置き、南漢がこれに因る。領県四)龍化・温水・南河・龍豪(いずれも旧県)
  • 瓊州(領県三。旧く曽口・顔羅の二県があったが南漢が省く)瓊山・容瓊・樂㑹(いずれも旧県)
  • 崖州(領県四)舎城・澄邁・文昌・臨髙(いずれも旧県)
  • 儋州(領県四。旧く富羅県があったが南漢が廃す)義倫・昌化・感恩・洛陽(いずれも旧県)
  • 萬安州(領県二。旧く富雲・博遼の二県があったが南漢が省く)萬安・陵水(いずれも旧県)
  • 振州(領県二。旧く延徳・臨川・落屯の三県があったが南漢が廃す)寜逺・吉陽(いずれも旧県)
  • 思唐州(属県の記載を欠く)
  • 交州(高祖が子の𢎞操を封じて交王とした)

楚の府州と属県

  • 長沙府(潭州。武穆王が潭州を長沙府とする。潭から辰に至る十州はのち周行逄に属し、やがて南唐の取るところとなった。領県九)
  • 長沙・湘潭・湘鄉・益陽・醴陵・瀏陽(いずれも旧県)、攸(旧くは衡山に属す、朱梁のときの所属。一説に漢の乾祐のときもなお衡に属したという)、龍喜(漢の乾祐三年(950年)に貞懿王が長沙県を分けて置く)、茶陵(もと衡州に隷し、石晉のとき潭州に属す。『湖廣舊志』に見える)
  • 衡州(領県五)衡陽(旧県)、衡山(旧県。『湖廣志』に晋の天福五年(940年)に潭州へ改属し、後にまた来属したという。県に安仁場があり、唐の清泰二年(935年)に邑の宜陽・熊耳二郷を割いて加えた。場に馬井があり、馬王の太子がここに馬を繋ぎ、馬が渇して地を蹴ると水が湧き出て井となったと伝える)、湘潭(旧県)、耒陽(旧県)、常寜(旧県)
  • 澧州(領県四)澧陽・安鄉・石門・慈利(いずれも旧県)
  • 朗州(領県三)武陵(旧県)、龍陽(旧県)、橋江(旧くは沅江。乾寜中に橋江と改めて岳州に属し、五代のときに来属)
  • 岳州(五代の初めは安武軍節度に属し、やがて湖南に隷し、後に武平軍節度に属す。領県四)巴陵(旧県。楚に帰す。廣順元年(951年)に南唐が取り、まもなく復す。県に王朝場があり清泰間の置)、華容(旧県)、湘隂(旧県)、平江(旧くは昌江。後唐の同光のとき避諱して改める)
  • 道州(領県四)營道(旧県)、延喜(唐は延唐。朱梁が延昌と改め、後唐の同光のとき延唐に復し、晋の天福七年(942年)に延喜と改める。一に延熹に作る)、江華(旧県)、永明(旧県)
  • 永州(領県二)零陵(旧県。石晉のとき県に東安場があり、馬氏が県を分けて置く)、祁陽
  • 邵州(石晋のとき邵州を敏州と改める。領県二)邵陽(旧くは邵陽県。石晉のとき敏政県と改め、漢がまた邵陽県を立てて敏州に属させた)、武岡(旧県)
  • 全州(晋の天福四年(939年)四月、文昭王が奏して湘川を清湘県とし全州を置き、灌陽県を割いて隷させた。歐陽忞はまた天福三年の置に作るが、今は『五代㑹要』に従う)清湘(旧くは湘川、永州に隷す。文昭王が改める)、灌陽(旧く永州に属し、天福中に来属)
  • 辰州(領県五)沅陵・溆浦・辰溪・盧溪・麻陽(いずれも旧県)
  • 融州(領県二。後に南漢に帰す)融水(旧県)、武陽(旧県。州に旧く黄水県があったが武陽に併合)
  • 郴州(旧くは郴・南亭・資興・義章・藍山・義昌・髙平・臨武の八県を領した。晋の天福初に文昭王が奏して敦州と改め、臨武・髙平の二県を廃してその地を桂陽監に入れ、また資興県を廃して資興寨とした。漢の乾祐のときまた郴州とする。後に南漢の乾和九年(951年)に将の潘崇徹を遣わして南唐の兵を宜章道に破り、郴を取って併合した)郴・南亭・義章・藍山(いずれも旧県)、郴義(旧くは義昌県。後唐の同光中に廟諱を避けて郴義と改める)
  • 桂陽監(唐が郴州の境に監を置いて鋳銭を掌らせた。晋の天福初に臨武・髙平の二県をその地に加えた)
  • 連州(領県三。乾祐三年(950年)に南漢へ入る)桂陽・陽山・連山(いずれも旧県)
  • 昭州(領県三。乾祐三年に南漢へ入る)平樂・永平・恭城(いずれも旧県)
  • 宜州(領県四。後に南漢へ入り三県を省く)龍水(旧県)、崖山(旧県。南漢が廃す)、東璽(旧県。南漢が廃す)、天河(旧県)
  • 桂州(領県十。後に南漢へ入る)臨桂・理定・靈川・陽朔・荔浦・修仁(いずれも旧県)、純化(梁の開平元年(907年)五月に歸化と改め、後唐の同光元年(923年)十月に旧に復す)、永福(旧県)、永寜(旧くは豊水県。梁のときに改める)、古(旧県)
  • 溥州(晉の開運三年(946年)に文昭王が奏して全義県に溥州を立て、県名を徳昌と改め、桂州の廣明・義寜二県を割いて隷させた)徳昌(旧くは全義、桂州に属す。開運中に徳昌と改め、後に旧に復す)、廣明(旧く桂州に属す)、義寜(もと臨川の地。馬氏が義寜鎮を置き、後に県となる。旧く桂州に属し、開運のときに来属)
  • 賀州(領県六。後に南漢へ入る)臨賀・桂嶺・馮乗・蕩山・富川・封陽(いずれも旧県)
  • 梧州(領県三。乾祐三年に入る)蒼州・戎城・孟陵(いずれも旧県)
  • 䝉州(領県三。後に南漢へ入る)立山・東區・正義(いずれも旧県)
  • 嚴州(領県三。乾祐三年に南漢へ入る)来賔・歸化・修徳(いずれも旧県)
  • 富州(領県三。乾祐三年に南漢へ入る)龍平・思勤・馬江(いずれも旧県)
  • 栁州(領県三。乾祐三年に南漢へ入る)馬平・栁城・洛容(いずれも旧県)
  • 龔州(領県六。後に南漢へ入る。案ずるに唐が龔州を置き、南漢の乾和八年(950年)に吴懐㤙が宜・連・梧・嚴・富・昭・栁・龔・象など諸州の地を平定した。宋の紹興六年(1136年)に至って初めて州を廃し潯州に併合。歐史職方考がその名を列さないのは、南漢が龔州を得た後に高祖の諱を避けて廃したためか。しかし『宋史』は開寳四年(971年)に廣南を平らげて六十州を得たとし、そこに既に䝉・龔の名があるので、これは解せない)平南・武林・隋建・大同・陽川・寜風(いずれも旧県)
  • 象州(領県二。乾祐三年に南漢へ入る。案ずるに『輿地廣記』は唐のとき州に武化県があり五代のときに省いたという)陽夀・武仙(いずれも旧県)
  • 錦州(領県五)盧陽・洛浦・招喻・常豐・渭陽(いずれも旧県)
  • 溪州(領県二)大鄉・三亭(いずれも旧県)
  • 叙州(一に溆に作る。秦漢の黔中の地で、唐は播・叙二州の境。後周のとき周行逢が死に、叙州刺史の鍾存志が武陽へ奔り、楊正岩が十洞をもって徽・誠二州と称した。すなわちその地である。一説に溪洞の誠州は楚の文昭王がその地を有したとし、それならば誠州と叙州はそれぞれ別の地となる。しばらく併記して後考を俟つ。本州は領県三)渠陽・三江・羅䝉(いずれも旧県)

呉越の府州と属県

  • 西府杭州(唐の大順元年(890年)に夹城三十餘里を新たに築き、景福二年(893年)に羅城七十里を作り、光化二年(899年)四月に都督府へ昇格。呉越はこれを西府といった。天寳元年(908年)に梁の勅で大都督府へ昇格し、後に国内でも西都と称した。領県十一)
  • 錢塘(旧県)、錢江(呉越の天寳十五年(922年)に錢塘・鹽官の各半を割いて錢江県を置き、富春の長壽・安吉二郷を割いて錢江に入れた。樂史『太平寰宇記』が唐の麟徳二年(665年)に錢塘・鹽官二県を分けて錢江としたとするのは非。また『冊府元龜』は晋の天福七年(942年)の勅で州県名のうち高祖の諱を犯すものを悉く改めさせ、杭州の錢塘を錢江と改めたという。歐陽忞『輿地廣記』もまた晋の天福中に高祖の名を避けて錢塘を錢江と改め、後に別に錢塘を置いて錢江と分治したとする。どちらが正しいか未詳)、鹽官(旧県)、餘杭(旧県。武肅王が県城を重ねて築き、周六百二十歩。後に溪南へ徙り清平軍と号す)、富春(旧くは富陽。呉越の天寳元年(908年)に富陽を富春と改める。当時、武肅王は楊氏と怨みがあり、県名に「陽」の字を持つものは皆改めた。富春城は武肅王が、地が江隅に迫るため磚石を積んで築いた)、桐廬(旧県。『宋史』地理志に厳州の桐廬県は太平興國二年(977年)に杭州から来隷したとあり、五代のとき桐廬はもと杭州に属した)、於□(底本欠字)(旧県。呉越が閲武寨を置いて敵を禦いだ。県の北五十里にある)、安國(旧くは臨安。唐の天祐二年(905年)に睦州分水県の南新・寜善・新登・廣陵・銅峴など五郷を割いて来属させた。呉越の天寳元年(908年)正月に梁の勅で安國県と改め、武肅王を尊んだ。県城は太廟山に依り武肅王が築いた)、新登(旧くは新城。呉越の天寳元年に梁が廟諱を避けて新登県と改める。杜稜城がある)、横山(旧くは唐山。呉越の天寳元年に梁の勅で金昌と改め、寳正二年(927年)に後唐がまた唐山と改め、晋の天福七年(942年)に高祖の諱を避け勅して横山とした。『郡縣釋名』は晋がさらに横山を吴昌と改めたとし、『呉越備史』はまた梁が唐山を吴昌と改めたとする)、武康(旧く湖州に隷す。武肅王のときに来属。『武順存録』は梁の開平元年(907年)に武康を割いて杭州に隷させたという)
  • 安國衣錦軍(唐の光化三年(900年)に臨安県の安衆営を衣錦営と改め、天福五年に衣錦城へ昇格、天祐四年(907年)三月に衣錦城を安國衣錦軍へ昇格。『宋史』は太平興國四年(979年)に順化軍と改めるとする)
  • 東府越州(唐の乾寕四年(897年)に武肅王が越州を東府と号し、後に国内でも東都と称した。呉越の天寳元年(908年)に梁の勅で越州を大都督府へ昇格。領県八)
  • 㑹稽(旧県)、山隂(旧県)、諸暨(初め暨陽と改め、天寳元年にまた奏して諸暨と改める。県城は武肅王が王永を遣わして修築させた)、贍(もと剡県。後に「二火一刀」の古語の説によって不祥を嫌い贍と改めた。贍都鎮がある)、餘姚(旧県)、蕭山(旧県。西興鎮があり、古の西陵である。武肅王が兵を屯し、「陵」の字を嫌って興と改めた)、上虞(旧県)、新昌(もと剡県十三郷の地。晉の天福のとき文穆王が奏して置く)
  • 蘇州(領県五)呉・長洲・崑山・常熟(いずれも旧県)、呉江(呉越の天寳二年(909年)閏二月に奏して松江に県を置き呉江といった)
  • 湖州(領県四)烏程・徳清・安吉(いずれも旧県)、長興(旧くは長城県。呉越の天寳元年八月に長興と改める、梁の諱を避けたもの)
  • 温州(領県四)永嘉(旧県)、瑞安(旧くは安固県。唐の天復三年(903年)四月、白い烏が県の集雲閣の上に栖み、武肅王が朝廷に報じ、詔して今の名に改めた)、平陽(旧くは横陽県。武肅王のとき勅して平陽と改める。『郡縣釋名』は横陽の名は横嶼と横陽江に由来し、後梁の乾化間に横陽が平定されたので平陽といったとする)、樂清(旧くは樂城県。呉越の天寳元年に梁主の父の諱を避けて改める)
  • 台州(領県五)臨海(旧県)、黄巖(旧県)、台興(唐は唐興県。呉越の天寳元年に梁の勅で改める。説は忠獻王世家の注に見える。任臣がまた案ずるに、歐陽忞は唐興を朱梁が天台と改め、後に旧に復し、それゆえ石晉が台興と改めたという。邑名がしばしば改まったので前後が混同されたのは、理としてありうる。また『順存録』は開平三年(909年)に唐興を新興と改めたとする。是非は未詳)、永安(唐は樂安県。呉越の寳正五年(930年)に今の名に改める)、寜海(旧県)
  • 明州(領県六。呉越の天寳二年(909年)に明州刺史の黄晟が卒し、武肅王が巡ってその地を有し、望海鎮に城を築いた)
  • 鄞(もとの鄮県。呉越が鄮を鄞と改める)、奉化(旧県)、慈谿(旧県)、象山(旧県)、望海(もと呉越の静海鎮、一に望海鎮に作る。武肅王の天寳二年閏八月に奏して望海県を置く。『呉越備史』はまた静海県に作り後に定海と改めたとする。『順存録』は梁が定海と改めたといい、『文獻通考』は宋が定海と改めたという。どちらが正しいか未詳)、翁山(旧県)
  • 處州(領県六)麗水・龍泉・遂昌・縉雲・青田(いずれも旧県)、白龍(もと唐の松陽県。呉越の天寳三年(910年)五月に梁へ上言し、淮の寇がまだ平らがず逆姓を聞くのを恥じるとして長松と改めることを請うた。晋の天福四年(939年)、旱魃の年に県令の陳時が百仭山で雨を祈ると白龍が現れ、これを聞いた文穆王が長松を白龍と改めた)
  • 衢州(領県四)西安(旧県)、江山(もと唐の湏江県。呉越が今の名に改める、邑に江郎山があるため。『太平寰宇記』に江郎山には五色の石があり日に照らされて輝くという)、龍游(旧くは龍丘県。寳正の末に「丘」が墓を意味して不祥だと嫌い今の名に改めた。『輿地廣記』は龍遊に作る)、常山(旧県。乾徳四年(966年)に忠懿王が常山の西境を分けて開化場を置く)
  • 婺州(領県七)金華・東陽・義烏・蘭溪・永康(いずれも旧県)、武義(唐初は武義、後に武成と改め、天祐末にまた武義とした。朱全忠の父の諱を避けたものか)、浦江(もとの浦陽県。呉越の天寳三年に武肅王が楊氏を嫌って奏し浦江と改めた。『順存録』はまた梁の貞明三年(917年)の改とする)
  • 睦州(領県五。天福三年(938年)四月に睦州に城を築く)建徳・壽昌・遂安・分水・青溪(いずれも旧県)
  • 秀州(呉越の寳大元年(924年)に武肅王が嘉興に開元府を置き、華亭・海鹽の二県を割いて属させた。後唐の長興三年(932年)に開元府を罷める。晋の天福五年(940年)三月に文穆王が奏して嘉興・海塩・華亭に秀州を置き、また崇徳県を置いた。『五代㑹要』は天福三年十月に秀州を置いたとし、『呉越備史』とやや異なる)
  • 嘉興(唐の光啓三年(887年)に嘉興県に城を築く。これより先、県は杭州に属し、やがて中呉軍に属した。晋の天福中に秀州を置く。『輿地廣記』は嘉興県は五代に杭州に属したといい、『五代㑹要』は両浙の錢元瓘が杭州の嘉興県に秀州を置くことを奏したといい、歐陽脩『五代史』もまた秀州は錢元瓘の置で杭州の嘉興県を割いて属させたとする。ただ『文獻通考』のみ、呉越王が蘇州の嘉興・海鹽・華亭に秀州を置くことを奏したという。案ずるに、唐の貞觀八年(634年)に嘉興県を復置して蘇州に属させ、梁の初めに杭州へ改属、まもなく開元府を置き、府が罷むと県は中呉軍に属し、やがてまた秀州を置いた。諸説に「蘇に隷す」「杭に隷す」の違いがあるのはこのためである)、海鹽(旧く蘇州に属す)、華亭(旧く蘇州に属す)、崇徳(もと嘉興の西の辺境の義和鎮。天福三年(938年)に廣陵王元璙が中呉に鎮したとき、嘉興の崇徳など九郷を分けて県とすることを請い、義和に治した。そこで郷の名を県名とした)

閩の府州と属県

  • 南都(一に東都に作る)長樂府(福州。唐の天復のとき王氏が羅城を築く。その門は七つで、南は利渉、東南は通津、東は海晏、東北は延逺、北は永安、西北は安善、西南は清逺、西は金斗。梁の開平元年(907年)にまた夹城を羅城の外に築く。その門は六つで、南は寜越、東南は美化、東北は井樓、北は嚴勝、西北は遺愛、西は迎仙。貞明六年(920年)に大都督府へ昇格。閩の龍啟元年(933年)に長樂府と改め、天徳二年(944年)に福州を南都とし、福・泉・建・汀・漳・鏞・鐔の七州を領した。福州は領県十一。南唐の保大三年(945年)に福州を取り、翌年呉越に入る。案ずるに呉越が福州を得たとき尤溪・徳化を福州に隷させ、福州は合わせて県十三を領した。乾祐元年(948年)に二県を唐に失い、なお領県十一。『閩中考』に、閩の王審知が福州の南北の夾城を築いたとき陶磚がみな銭文を仰いでおり、後に城が呉越に帰したので人々はそれを先兆としたという)
  • 閩(旧県。何喬逺『閩書』に、閩県は隋以前は原豐といい、開皇十二年に閩と改め、五代の唐の長興四年(933年)に王氏が長樂と改め、清泰二年(935年)に旧に復し、晋の天福六年(941年)に王氏がまた長樂県と改めたという。これによれば閩の龍啟元年と通文二年はいずれも旧閩県を長樂県としたことになる)、侯官(旧県。閩の龍啟元年に旧侯官県を閩興と改め、三年(935年)に旧に復す)、長樂(旧県。乾化元年(911年)に安昌と改め、同光の初めに長樂に復す。龍啟元年に長樂を侯官と改め、三年に旧に復す)、連江(旧県)、長溪(旧県)、福清(旧くは福唐。閩が福清と改める。任臣が案ずるに、『冊府元龜』『舊唐書』『輿地廣記』諸書に、唐の聖厯二年(699年)に長樂を分けて萬安を置き、天寳元年(742年)に福唐と改め、朱梁の開平二年(908年)に永昌と改め、後唐の同光元年(923年)にまた福唐に復し、晋の天福七年(942年)に高祖の諱を避けて遠くから南臺と改めたとある。これは閩の永隆四年にあたる。この時、閩は自立して既に福清と改名していた。あるいは閩の龍唘のときに唐の号を厭って福清と改めたともいう。それならば晋がなぜ避諱して遠くから改める必要があったのか)、古田(旧県)、永泰(旧県)、閩清(旧くは梅溪場。乾化元年(911年)十月に閩が置く)、永貞(もと羅源場。咸通のとき永貞鎮と号し、閩の龍唘元年(933年)に県へ昇格)、寜徳(旧くは感徳塲。閩の龍唘元年に寜徳県へ昇格。『海録碎事』に寜徳県は閩王のとき鶴塲と号したという)
  • 泉州(領県九。後に南唐へ入る)晉江・南安・莆田・仙遊(いずれも旧県)、同安(旧くは大同場。閩の龍啟初に県へ昇格)、清溪(南唐の保大十三年(955年)に詹敦仁に小溪場の事を監させ、小溪は県を置くべきだとして清源節度使の㽞從效に請い、県を置いて清溪といった。県治の前を溪水が環り遶るためである。『文獻通考』が王氏の置とするのは誤り)、永春(旧くは桃林場。龍唘元年に闕春県と改め、一に桃源県ともいう。通文のときに永春と改める)、徳化(旧くは歸德場。長興三年(932年)に閩の惠宗が歸徳県として南樂府に属させた。南唐の保大七年(949年)に清源軍に属し、尤溪の常平・進平二県を割いて加えた)、長泰(唐の乾符三年(876年)に邑長の張思が初めて武徳場を置いて輸納の便とし、文徳元年(888年)に武勝と改め、まもなく武安と改めた。南唐が長泰県へ昇格させた。一に閩の永隆五年の置というのは非)
  • 建州(領県七。後に南唐へ入る)
  • 建安(旧県。県に崇安塲がある)、邵武(旧県。『閩書』に唐の嗣聖五年に邵武および綏城の地を分けて將樂県を置き、唐末に王氏の拠るところとなり、晋の天福初にまた邵武としたという。一説に晋の元康元年(291年)に昭武を邵武と改めた、司馬昭の諱を避けたものだという。閩の通文元年(936年)にまた邵武を昭武と改め、宋がまた邵武とした。また光澤・鸞鳯の二郷は唐が洋寜鎮を置き、南唐が財演鎮と改めた)、浦城(旧県)、建陽(旧県。宋白『續通典』に、県の東北三里は南唐の保大九年(951年)に割いて崇安場とし、宋のとき初めて崇安県を置いたという。『九域志』が崇安県も王氏の置とするのは非)、松源(初めは呉越の處州東郷。閩の太祖が奪ってこれを有し松源鎮とし、南唐が県へ昇格させた。『輿地廣記』は松溪に作り、『文獻通考』も松溪に作って王氏の増置とする。郭子章は宋が初めて「源」を「溪」に改めたという。県の北境に關𨽻鎮がある。『周礼』秋官に閩𨽻の職があり、蓋しその地の人が周のとき常に閩𨽻となったので、後人が字を誤って關𨽻としたのであろう)、歸化(旧くは歸化鎮。南唐の保大元年(943年)に鎮を廃して場とし、中興元年に県へ昇格)、建寜(旧くは黄連鎮。唐末の黄巣の乱に邑人の陳巖が鎮兵をもってこれを禦ぎ、表して義寕軍とし鼔角を置き牌印を賜り、永安に治した。南唐が罷めて永安鎮とし、また永安塲と改めた。建隆元年(960年)に南唐が分けて建寜県を置いた、建寜の旧に従ったものである)
  • 汀州(領県二。後に南唐へ入る)長汀(旧県。県の南境に上杭塲がある。『郡縣釋名』に南唐の保大十三年(955年)に上杭塲を秇梓保へ徙したという。また王閩のとき武平塲があり、もと唐の武平鎮である。『閩書』に唐のとき汀州の西南の地を南安・武平の二鎮とし、閩に至って南安を併せて武平塲としたという。また県の西四十里に古城があり、㳟懿王延政が築いて江南の兵に備えたもの)、寜化(旧県)
  • 南州(閩では漳州。後に南唐の取るところとなり、保大四年(946年)に董思安に州務を知らしめたが、思安は父の名が章であるとして辞したので、命じて南州と改めた。宋の乾徳四年(966年)にまた漳州と改める。領県三。一に南唐が泉州の長泰を来属させたというが未詳、非であろう)漳浦・龍溪・龍岩(いずれも旧県)
  • 鏞州(旧くは將樂県で建州に属した。天徳元年(943年)に県を鏞州へ昇格。『閩書』に將樂県は王延政が西鏞州へ昇格させ、南唐がまもなく県に戻したという)
  • 劍州(唐はもと劍州。閩の太祖が延平鎮と改め、嗣王の延翰が永平鎮と改め、鄱陽王延政が劍州に自立して龍津県へ昇格させ、まもなく鐔州を置いた。南唐が鐔州を抜いて制置鎮とし、翌年劍州と改め、建州の南平・劔浦・富沙の三県を分けて属させた。保大六年にまた福州の尤溪、汀州の沙県を来属させ、永昌塲を順昌県へ昇格させた。領県六。『南唐書』および『唐餘紀傳』は保大三年(945年)に建州の延平津を劍州へ昇格させたという)
  • 南平(一に延平に作る。歐陽忞は延平は晋のとき建安郡に属し後に省かれ、五代に置かれたという。今は『閩書』に従い南平に作る)、劔浦(閩では龍津県。南唐が劔浦を置く。歐陽忞は南唐が劍州を立て初め延平に治し後に劔浦へ徙り、延平は省かれて併合されたという)、富沙(初め劍州を置き、南唐のときに来属。鄱陽が初め富沙王に封ぜられたのがこの地)、尤溪(旧県。閩では福州に属す。南唐が尤溪を得て制置鎮とし、やがてまた割いて劍州に隷させ県と改めた。沈溪があり、溪のほとりに沈姓の者が住んでいたが、後に閩の太祖の諱を避けて「尤」と名を改め、沈姓もまた尤に改めた)、沙(旧県。もと江州に隷し、南唐のときに来属。『文獻通考』が閩が沙県を劍州に属させたとするのは非)、順昌(何氏『閩書』に南唐が永昌塲に置いたといい、一に保大六年(948年)に建州の永昌塲に順昌県を置いたという。また宋白『續通典』に唐の景福二年(893年)に將水鎮を置き永順塲と改め、まもなく順昌県を立てたという。任臣が案ずるに、□(底本欠字)永隆二年(940年)に王延政が永平・順昌の二城を取ったとあるので、順昌の名は南唐に始まるのではないようだ)

荆南の府州と属県

  • 江陵府(荆州。五代のとき府と改める。領県八)江陵(旧県。髙氏の井があり、すなわち繼冲の轎覆井の故蹟)、枝江(旧県)、松滋(旧県)、監利(旧く復州に属し、梁のときに来属。県の南五里に古堤院があり、文昭王が築いて水害を防いだ)、石首(旧県)、當陽(旧県)、公安(旧県)、長林(旧県)
  • 荆門軍(五代に荆門県を軍と改め當陽に治し、まもなく省く。案ずるに唐の貞元二十一年(805年)に長林を分けて荆門県を置いた。『湖廣志』は髙季昌が荆門県を軍としたといい、『文獻通考』はまた宋の開寳五年(972年)のこととする。どちらが正しいか未詳)
  • 歸州(梁のとき蜀に属し、後唐のとき高氏の有となる。領県三)秭歸・巴東・興山(いずれも旧県)
  • 峡州(梁のとき蜀に属し、後唐のとき高氏の有となる。領県四)夷陵(唐の天寳八載(749年)に長陽に併合され、五代のとき復置)、宜都(旧県)、長陽(旧県)、逺安(旧県)

北漢の府州と属県

  • 太原府(并州。領県十三)太原・青陽・文水・陽曲・樂平・清源・太谷・祁・榆次・盂・夀陽・廣陽・交城(いずれも旧県)
  • 汾州(領県五)温城・平遥・介休・孝義・靈石(いずれも旧県)
  • 嵐州(領県四。北漢が勇雄鎮を置く)宜芳・合河・嵐谷・静樂(いずれも旧県)
  • 岢嵐軍(北漢が嵐谷県を軍とした。案ずるに宋の太宗が府州から兵を会して北漢を攻めたとき、先に岢嵐軍を落としているから、岢嵐軍は宋に始まるのではない。馬端臨が太平興國五年(980年)の置とするのは非。また『宋史』は太平興國四年(979年)に太原を平らげて州十・軍一を得たとし、その軍とは寳興軍である。岢嵐軍を数に入れないのは、名だけ存して実は廃されていたのか、あるいは廃されたのを宋が復置したのか。顧氏『方輿紀要』は寳興軍は或いは岢嵐軍だというが、是非は未詳)
  • 憲州(宋白『續通典』に、憲州はもと樓煩の監牧で、唐の昭宗の龍紀元年(889年)に李克用が表して憲州を置き、漢・北漢がこれに因るという。領県三)樓煩・𤣥池・天池(いずれも旧県)
  • 忻州(領県二)秀容・定襄(いずれも旧県)
  • 代州(領県五)鴈門・唐林・五臺・繁峙・崞(いずれも旧県)
  • 寳興軍(五臺県の柏谷に劉繼顒が銀冶を置き、鉱を採って烹て銀とした。すなわちその冶の地に寳興軍を建てた)
  • 遼州(唐は儀州。梁が遼州と改め、漢・北漢がこれに因る。領県四)遼山・榆社・和順・平城(いずれも旧県)
  • 沁州(領県三)沁源・綿上・和川(いずれも旧県)
  • 隆州(案ずるに祁県の東三十里に隆州の故城があり、劉繼元が築いて周に拒んだもの。『戍河東記』に太平興國四年(979年)春に王師が嵐州を落とし次いで隆州に至るとあるのがこの地。また胡三省の『通鑑』注に、宋の太宗が太原を平らげたとき折御卿が府州から兵を会して劉繼元を攻め、先に岢嵐軍、次に隆州、次に嵐州を落としたとあるので、隆州は晉・漢の間の置で、その地は岢嵐・嵐谷の間にある)
  • 石州(領県五)離石・臨泉・平夷・方山・定胡(いずれも旧県)
  • 蔚州について――『通鑑』は北漢が十二州を領有したとしてその中に蔚州の名を挙げるが、晋が十六州を契丹に与えたとき蔚州は既に十六州の数に入っている。北漢がさらに蔚州を有しえたのか、これは未詳なので、今はその名を列さない。