十国春秋卷一百七 北漢四 列傳 盧俊

盧俊

  • 盧俊は(諱を欠く)公主を尚(めと)って駙馬都尉となった。広運三年、宋軍が国境に迫ると、俊は遼に赴いて師を乞い功があった。白馬嶺の役で、遼の相耶律舒がまさに太原に趣こうとしたとき、たまたま俊が国が亡んだことにより出奔してきて、太原はすでに陥ちたと言ったので、そこで兵を勒し還った。
  • 俊が遼に至ると、同政事門下平章事に署せられた。翌年、遼の景宗は公主淑格を俊に下嫁させ、再び駙馬都尉を拝した。しばらくして淑格と折り合いが悪くなり、詔して離縁させ、蕭神努に改め適(とつ)がせた。そこで俊は出されて興国軍節度使となり、その国で生涯を終えた。

史論

論曰:ああ、力尽き勢い窮まり、城を背にして一戦を借しむ(背水の陣で決戦する)ことは、国を守る大義である。しかるに論者は峰が降伏を勧めたことを幾(きざし)を知る者としているが、これもまたその勢いを権(はか)ったのみで、その義を衡(はか)ってはいないのだ。昭敏の君を立てる説は火を観るように明らかであり、もしその言葉が用いられていたならば、必ずしも漢(北漢)の福とならなかったとは言えまい。俊が隣国に出奔して仇讐(宋)に事えなかったことは、あるいはなお孤臣が行遯(逃れ隠れる)する旨に合うものであろうか。