鄭珙
- 鄭珙は青州の人である。若くして異才があった。世祖が太原尹であったとき、珙を留守判官に招聘した。乾祐の初め、政は大臣にあり、枢密使郭威は新たに三叛を討って大功を立てたが、世祖と隙があった。世祖は大いに不安を感じ、珙に「主上(隠帝)は幼弱で、政は権門より出ている。私と郭公は折り合いが悪いが、どうすればよいか」と語った。珙は「漢の政はまさに乱れようとしています。晋陽の兵は天下に雄たり、地形は険固で、十州の征賦は自給するに足ります。公は宗室の長老でありながら、この時に策を立てなければ、後には必ず人に制せられるでしょう」と言った。世祖は「そなたの言葉はまさに私の意にかなう」と言い、そこで表を上げて兵を募り四指揮とし契丹に備えた。ここにおいて豪傑を集め、民を籍して兵を増し、威と隠然として敵国のようであった。
- ほどなく太原で即位すると、珙を中書侍郎に任じ、趙華とともに同平章事とした。遼の世宗烏雲は世祖と父子の国となることを約したので、世祖はそこで珙を礼部侍郎とし、遼に使いさせ、自ら姪皇帝と称して叔の天授皇帝に書を送り、冊礼を行うことを請わせた。烏雲は性が豪雋(豪快で優れる)であり、諸使臣が至るとそのたびに酒肉で困らせた。珙はもとより体格が大きく酒に強かったので、烏雲はますます酷く酒を注ぎ避けさせなかった。珙はもとより疾があり、ある夜、無理に飲まされ脅(わき腹)が腐り卒した。そのまま遺体を輿に乗せて復命することとなった。