十国春秋十國春秋卷一百七 北漢四

李驤――献策して斬られた謀臣

  • 李驤は真定の人。河東の幕僚から身を起こし、慷慨の気に富み兵を論ずるのに巧みで、技量と謀略に富んでいた。
  • 天福十二年(947年)、髙祖が世祖を太原尹としたとき、驤を少尹に抜擢して補佐させた。
  • ほどなく隱帝が殺され、侍中の郭威は馮道らを遣わして湘陰公の贇を徐州に迎えさせた。当時、人はみな威の本心でないと知っていたが、世祖ひとりは「わが子が帝となるのだ、何を憂えよう」と内心喜んだ。
  • 驤はそこでひそかに世祖に説いた。「機微を知るのは神業と申します。時機は逃せません。郭公は兵を挙げて順に背きました。その勢いからして漢の臣たり得ず、必ず劉氏のために後嗣を立てはしません。公は急ぎ兵を率いて太行を越え孟津を押さえ、徐州相公の即位を待ってから鎮所へ帰るがよい。そうすれば郭公も動けません。さもなくば売り渡されましょう」。
  • 世祖は「驤め、腐れ儒者が我が父子を離間しようとしている」と大いに罵り、左右に引き出して斬らせた。
  • 驤は叫んだ。「わしは天下を経綸する才を抱きながら、愚か者のために策を立てた。死ぬのは当然だ。しかしわが妻は病身で一人では生きられぬ。ともに死なせてほしい」。そこで妻もあわせて殺された。
  • ほどなく威は果たしてみずから皇帝となり、湘陰公を宋州で弑した。世祖は大いに哭いて「わしは忠臣の言を用いなかったためにここに至った」と言い、驤のために太原に祠を建てた。

鄭珙――自立を勧め、遼で酒に斃れる

  • 鄭珙は青州の人。若くして異才があった。世祖が太原尹を務めていたとき、珙を留守判官に辟召した。
  • 乾祐の初め、政は大臣の手にあり、樞密使の郭威は三つの叛乱を討って大功を立てたが、世祖とは確執があった。世祖は不安を覚え、珙に「主上は幼弱で政は権門から出ている。しかも私は郭公と折り合わぬ。どうすればよいか」と問うた。
  • 珙は答えた。「漢の政はまさに乱れようとしております。晉陽の兵は天下に雄々しく、地形は険しく堅固で、十州の租税は自給に足ります。公は宗室の長老です。今この時に策を立てなければ、必ず後に人に制せられましょう」。世祖は「君の言はまさに我が意にかなう」と言った。
  • そこで上表して四指揮の兵を募り、契丹に備えると称した。こうして豪傑を集め民を兵籍に編入して兵を増やし、威とはひそかに敵国のごとき間柄となった。
  • まもなく世祖は太原で即位し、珙を中書侍郎とし、趙華とともに同平章事とした。
  • 遼の世宗・烏雲が世祖と父子の国たることを約したとき、世祖は珙を禮部侍郎として遼へ使いさせ、みずから「姪皇帝」と称して「叔天授皇帝」に書を送り、冊礼を請わせた。
  • 烏雲は豪放な性で、来た使臣をそのつど酒肉で困らせた。珙は体格が大きく酒をよくしたので、烏雲はいよいよ酷く酒を注ぎ、遠慮しなかった。珙にはもとより持病があり、ある夜、無理に飲まされて脇腹を損なって死んだ。ついに遺骸を車に載せて復命することとなった。

趙華――挙兵を諫めた儒者

  • 趙華は滎陽の人。隱帝のとき河東觀察判官となり、世祖が即位すると戸部侍郎・同平章事に抜擢され、のちに僕射を加えられた。
  • 天會の初め、李筠が表を奉って臣を称し、睿宗に出兵を乞うた。睿宗がみずから兵を率いて團柏谷へ出るとき、群臣は汾水のほとりで見送った。華は「李筠の挙兵は軽率です。陛下が国を空にして兵を興されるのは、臣にはまことに憂わしい」と述べたが、聴かれなかった。
  • のちに監軍の盧贊と宰相の衛融が相次いで帰らなかった。睿宗は華に「公の言を聴かなかったばかりに危うく敗れるところであった。しかも融と贊の二人を失ったのが何としても残念だ」と言い、これによっていよいよ儒者を重んじた。

李光美――朝廷の制度を整えた実務家

  • 李光美は河南の人。世祖が太原で自立すると、光美を客省使に署した。
  • 光美はもと直省の職にあり、前後の典故に通じていた。当時は万事が草創であったが、朝廷の制度や儀注はすべて光美の手から出た。綱目が整い、大体をよく得ていたので、当時の人は晉の王彪之や唐の裴冕になぞらえたという。

李存瓌――数朝に仕えた宗室

  • 李存瓌は唐の莊宗の従弟である。明宗に仕えて供奉官となった。
  • 存瓌はもと孟知祥の甥にあたる。長興三年(932年)、明宗は存瓌を蜀へ遣わして知祥を宣慰させ、詔を賜わって「董璋は狼のごとき心でみずから一族の滅亡を招いた。卿の郷里の田園も親戚もみな安全を保っている。家門代々の美名を成し、君臣の大節を守るがよい」と伝えさせた。存瓌は詔を奉じて懇ろに諭し、大いに知祥の心を得た。明宗はその手腕を称えた。
  • のち晉にも仕えて趙州刺史を授かった。髙祖のとき、世祖が北京留守となると、存瓌を副留守に署し、少尹の李驤と馬步指揮使の蔚進に補佐させた。まもなく河東節度副使に改められた。
  • 乾祐四年(951年)、世祖が皇帝の位に即くと代州防禦使を授け、都監に進めた。世祖はかつて存瓌を顧みて「今日みだりに帝号を称しているが、やむを得ぬことだ」と語った。
  • そのうえで孝和帝に晉州を攻めさせ、存瓌に步騎一万を率いさせて副とした。数か月後、通事舍人の李𧦬が遼へ援兵を乞いに行き、世祖はふたたび存瓌を招討使として兵を率いて團柏から周を伐たせ、功があった。
  • 天會年間、累進して武忠節度使・同平章事となり、契丹の将の髙勲とともに上黨を攻めたが得るところなく引き返した。その後の消息は分からない。

張元徽――高平で戦死した猛将

  • 張元徽は武安の人。世祖が太原に鎮したとき裨將であり、即位すると馬步軍都指揮使に改められ、ついで武寧節度使に遷った。
  • 世祖はかつて元徽らに語った。「朕は髙祖の基業と贇の無念のため、義として郭公に屈することはできぬ。公らとともに力を尽くして家国の仇を報いたい。一方に帝を称しているのはやむを得ぬことだ。考えてもみよ、私がどれほどの天子で、お前たちがどれほどの節度使であろうか」。
  • まもなく周の太祖が没し、世祖は大挙して周を伐ち、元徽を前鋒都指揮使に署した。契丹の兵とともに團柏から潞州へ向かい、周将の穆令均と太平驛で遭遇した。元徽は敗けたふりをして誘い込み、伏兵を起こして令均を斬り、捕虜と鹵獲は数知れなかった。
  • のち世祖が兵を率いて巴公原に陣し、元徽はその東、楊衮はその西に軍した。元徽は千騎を率いて周の右軍を撃ち、周将の樊愛能と何徽は兵を率いて真っ先に逃げ、右軍は潰えて甲を脱いでことごとく降った。世祖の軍中は万歳を叫んだ。
  • この戦役で愛能と徽は弓を引いて南へ走り、周の世宗はみずから矢石を冒してかろうじて難を免れた。陣を陥れた力は元徽の功が大きい。世祖はみずから褒賞し、格別に慰労し、さらに勝ちに乗じて進むよう促した。
  • 元徽はもとより驍勇で、しかも連勝して気はいよいよ驕り、まっすぐ前へ出て敵陣を侵したが、馬が倒れて周兵に殺された。元徽は国の大将であったから、これによって将士はみな気を奪われ、軍は振るわなくなった。

白從暉

  • 白從暉は吐谷渾の人。周の大同節度使の承福、遼の雲州觀察使の可久は、いずれも同族である。
  • 從暉は若くして勇敢で謀略に富んだ。開運の初め、晉に仕えて冀州刺史となり、契丹の兵を衡水のほとりで破って初めて名を知られた。
  • 乾祐四年(951年)、世祖が天子を称し、孝和帝に周の晉州を攻めさせたとき、從暉は李存瓌とともに副招討使となったが、結局功は挙がらなかった。
  • のち義成節度使を授かった。潞州の戦役では行軍都部署となり、前鋒都指揮使の張元徽とともに團柏から出兵した。まもなく高平の大戦で元徽が敗死し、從暉もほどなく病で没した。

史論

  • 論に言う。神武(世祖)父子は晉陽に号を建てて強敵に抗し、文武の輔佐が雲のごとく湧き起こった。驤の謀画、珙の偉才、華の的中する見通し、光美の朝儀への習熟、存瓌の数朝にわたる仕官と雍容たる風雅、いずれも一時の人選として揃っていた。元徽の驍勇、從暉の果毅もまた名将の器であった。
  • しかし、ある者は酒食の席で命を落とし、ある者は敵を侮って命を捨てた。惜しむべきことである。少尹(李驤)に至っては忠言が容れられぬどころか誅戮に遭い、無辜の妻まで巻き添えとなった。みずから良臣を捨てながら河東がどうにか存続できたのは、幸運というほかない。

王得中――家と国のために口を閉ざした使者

  • 王得中は上黨の人。世祖のとき樞密直學士となり、詔を奉じて遼の穆宗・舒嚕の即位を賀し、まもなく太原に帰った。
  • 乾祐七年(954年)、世祖が周軍と戦ったとき、王延嗣が司天監の李義に「今こそ戦うべき時です」と世祖に告げさせた。得中は馬に取りついて「南風が甚だ急です。北軍に利はありません。どうしてこれが我らを助けるものでしょうか」と諫めた。世祖は怒って「老いぼれ書生め、みだりにわが軍を沮むな」と言った。果たして戦は不利に終わった。
  • 世祖はそこで得中に遼将の楊衮を送らせ、あわせて出兵を乞わせた。遼の穆宗は得中を帰らせて、兵を発して晉陽を救うと伝えさせた。
  • ところが代州の将の桑珪が防禦使の鄭處謙を殺しており、得中はその地を通りかかったため、珪に械をはめられて周へ送られた。周の世宗は帯と馬を賜わり、契丹の兵はいつ来るかと問うた。得中は「臣は楊衮を送るよう命じられただけで、ほかは何も存じません」と答えた。
  • ある人が得中に「契丹は公に出兵を約したのに、公は実情を告げなかった。契丹の兵が今にも来れば、公は危ういのではないか」と言った。得中は嘆息して答えた。「わしは劉氏の禄を食み、老母は囲みの中にいる。もし実情を告げれば周人は必ず兵を出して険を押さえ防ぐだろう。そうなれば家も国も両方失われる。わし一人生き延びて何になろう。身を殺して家と国を全うするほうが得るところは多い」。
  • 数日後、契丹が符彦卿を忻口で破ったため、周の世宗は得中が欺いたと責めて殺した。

段常――寵姫の讒言に斃れる

  • 段常は(闕)の人。睿宗に仕えて内客省使となった。実務の才があり、天會と改元されたとき樞密使に抜擢され、その職に励んだ。
  • 七年、王隱らが乱を起こし、供述が常に及んだため汾州刺史として出された。まもなく睿宗は郭姫の言を容れて縊り殺した。
  • この年、遼の穆宗が詰責の書を送り、常を殺したことを専殺の罪として強く責めた。

衛融――宋に囚われた宰相

  • 衛融は字を明遠といい、青州博興の人。晉の天福の初めに進士に及第し、南樂主簿に任じられ、齊州・澶州の二州の從事、忠武軍掌書記を歴任した。髙祖のとき太原觀察支使となった。
  • 世祖が皇帝を称すると翰林學士を授かり、契丹に赴いて冊礼を謝し、あわせて出兵を請うた。天會元年(957年)に中書侍郎・同平章事に遷った。
  • 四年、睿宗は盧贊を遣わして李筠の軍を監させたが、贊と筠は折り合わなかった。詔によって融が潞州へ赴き和解させたが、ちょうど筠が敗れ、融は宋人に捕らえられた。
  • 宋の太祖は「お前はなぜ劉鈞に挙兵して李筠の謀反を助けるよう勧めたのか」と責めた。融は答えた。「犬はその主人以外に吠えるものです。臣は四十口の家族とともに劉氏から豊かな衣食を受けており、背くに忍びません。陛下が臣を殺されずとも、臣は陛下には用いられません。いずれ間道を通って河東へ走るだけです」。
  • 太祖は怒り、鉄の撾でその頭を打たせた。血が流れて顔を覆ったが、融は大声で「大丈夫の死は泰山より重いこともあれば鴻毛より軽いこともある。臣は今、死に場所を得た」と叫んだ。太祖は左右を顧みて「これは忠臣だ」と言い、釈放して良薬でその傷に手当てし、襲衣・金帯・鞍と轡付きの名馬を賜わった。
  • のち融を本国へ帰そうとして睿宗に書を送り、融と周光遜らとの交換を約した。光遜らはもと李筠が捕らえて献じてきた者である。睿宗は久しく返答しなかったので、宋は融を太府卿に任じ、汴京に邸宅を賜わった。
  • 乾徳と改元して郊祀が行われたとき、融は「郊禋大禮賦」を献じ、司農卿に改められ、陳州・舒州・黄州の三州の知事として出た。開寳六年(973年)に没し、享年六十九。子の偁・儔と孫の齊はそろって進士に及第した。

盧贊

  • 盧贊は睿宗に仕えて累進し宣徽使に至った。
  • 周の臣の李筠が降ってきたとき、睿宗は贊にその軍を監させた。筠は内心きわめて不満で、事を謀るたびに贊と衝突した。睿宗は衛融に仲裁させたが、ついに心から従わせることはできなかった。
  • ほどなく宋将の石守信が筠の軍を大破し、贊はそこで身を殉じた。左右の者はみな哀しんだ。

史論

  • 論に言う。得中は旧主に心を寄せ、生を貪って国を売ることをしなかった。節を守ることこれより大なるはない。融は慷慨として屈せず、死を帰するがごとくに見た。忠である。それなのに結局は宋の朝廷で職を授かり、郊禋の賦まで献じたのはどうしたことか。
  • 常と贊については、一方は禍の階を作った長舌の女によるものであり、一方は隣国を援けたことから起こった破綻である。いずれも孝和帝が実質的に殺したのだと言わざるを得ない。

蔚進

  • 蔚進は睿宗に仕えて侍衛都指揮使となり、親兵を掌った。勇は一軍に冠たるものであった。
  • 天會年間、郝貴超とともに兵を率いて樂平を救援したが、敗れて帰った。

郝貴超と郝惟慶

  • 郝貴超は家系が分からない。世祖・睿宗に仕えて大将となり、しばしば戦功を立てた。
  • 天會四年八月、宋の晉州鈐轄の荆罕儒が汾州を侵してきた。貴超はちょうど汾の地に鎮しており、ひそかに兵を出してその陣営を襲い、罕儒はついに戦死した。罕儒は宋にとって驍将であったから、宋の太祖は深く惜しみ、命に従わなかったその部将二十余人を斬った。
  • 貴超はその後、樂平を救い遼州を援けたが、いずれも功はなく、久しくして死んだ。
  • 同じ頃、禁軍の帥に郝惟慶という者があった。貴超の一族かと思われる。無骨で文がなく、物事の情に通じなかった。当時はまだ各地の物産が行き渡っておらず、閩・粤から来た商人が橄欖の実を世祖に献じ、翌朝、大臣たちに分け与えた。惟慶は「この果物はわが郷の竹青棗の類で、長く食べてようやく少し味が分かるものです。お上は何のためにこれを賜わるのか。臣の好むのは金稜の略綽盤のほうです」と言った。聞いた者は大笑した。

張崇訓・鄭進・衛儔

  • 張崇訓・鄭進・衛儔はいずれも睿宗の宿将である。しばしば征伐に従って大功があったが、英武帝のとき讒言によって相次いで殺された。

高仲曦

  • 高仲曦は(闕)の人。英武帝に仕えて樞密使となったが、やはり讒言に遭って非業の死を遂げた。

史論

  • 論に言う。善人は国の綱紀である。張・鄭・衛・高が相次いで命を落としたのは、英武帝の生まれつきが刻薄であったからであろうか。
  • 蔚進と郝貴超が孝和帝に力を尽くして始終を全うできたのは、幸運と言うべきではないか。ささやかな小国でありながら濫りな刑罰をほしいままにした。ああ、言葉にしがたいことである。

張昭敏――繼文擁立を説いて殺される

  • 張昭敏は睿宗に仕えて累進し平章中書事に至った。慷慨として率直、憚らずに諫言し、権勢を恐れなかった。
  • 少帝が殺された後、朝臣はそれぞれ擁立すべき者を論じ、正午になっても決しなかった。昭敏ひとりが机を押しやって言った。「少主は宗姓でないゆえに天位が長く続かなかったのです。今こそ劉氏を立てて天下の心を慰めるべきです。繼文は久しく契丹に留まっておりますが、世祖皇帝の嫡孫です。迎え立てれば、外は隣国の援けを結び、内は宗社の本を固められます。君主に立てるに繼文に勝る者はありません」。
  • 当時、郭無為は繼文を憚り、その議論を握り潰し、どうしても英武帝を立てて恩を売ろうとした。まもなく昭敏は殺された。

馬峰――降伏を勧めた老臣

  • 馬峰は太原の人。睿宗父子に仕えて宣徽使となった。
  • 廣運の初め、契丹が令を伝えて宋と誼を通じみだりに侵伐しないよう命じた。英武帝はその命を聞いて慟哭し、兵を出して契丹を攻めようと謀ったが、峰が切に諫めて不可とした。まもなく樞密副使に遷り、左僕射で致仕した。
  • 宋軍の太原包囲がきわめて急となっても国人はなお堅守しようとした。峰はちょうど病で家にいたが、輿に乗せられて参内し、英武帝に涙を流して興亡の理を説いた。英武帝はそこで降伏した。
  • 太原が平定されると、宋の太宗は峰を將作監とし、太府卿に転じ、西京に分司させた。峰は薬餌による養生に巧みで、体は強健で病がなかった。性は吝嗇で、議論を好んだ。宋の雍熈元年(984年)に没し、享年八十余であった。

盧俊――遼へ出奔した駙馬

  • 盧俊は(闕)公主を娶って駙馬都尉となった。
  • 廣運三年(976年)、宋軍が国境に迫ると、俊は遼へ赴いて出兵を乞い、功があった。
  • 白馬嶺の戦役で、遼の宰相の耶律舒が太原へ向かおうとしたとき、ちょうど俊が亡国のため出奔してきて太原はすでに陥ちたと述べたので、兵を収めて引き返した。
  • 俊は遼に至って同政事門下平章事に署された。翌年、遼の景宗は公主の淑格を俊に降嫁させ、ふたたび駙馬都尉を拝させた。
  • のちに淑格と不和になり、詔によって離縁させられ、淑格は蕭神努に再嫁した。俊は興國軍節度使として出され、その国で没した。

史論

  • 論に言う。ああ、力尽き勢い窮まってなお城を背に一戦を挑むのが、国を守る大義である。それなのに論者は峰の降伏の勧めを機微を知る行いだとする。それは形勢を量っただけで義を量っていない。
  • 昭敏の君を立てる説は、火を見るように明らかであった。仮にその言が用いられていれば、漢の福とならなかったとも限らない。
  • 俊が隣国へ亡命し仇敵に仕えなかったのは、なお孤臣が身を退けるという趣旨にかなうと言えようか。