睿宗后郭氏――孝和帝の柩前で縊り殺される
- 睿宗の后の郭氏は、天會年間、英武帝の兄弟を養って子としていた。
- 英武帝のもとの后の段氏が些細な過ちで譴責を受け、その後、別の病にかかって死んだ。帝は后が段氏を死に至らしめたと疑い、内心きわめて不満であった。
- 即位すると寵臣の范超を遣わして后を殺そうと図った。后はちょうど喪服のまま孝和帝の柩の前で哭していたが、超はこれを捕らえて縊り殺した。あわせて劉氏の子孫を残らず滅ぼした。
郭姫――出自ゆえに妃に立てられず
- 郭姫はもと医僧の娘である。僧が□(底本欠字)婦と通じて生んだ子であった。
- 際立った美貌があり、睿宗は宮中に入れて寵愛し、妃に冊立しようとした。しかし樞密使の段常が、姫の出自が釣り合わず隣国の物笑いになると諫めたため、取りやめとなった。
- 姫の姻族や親戚もまた多く抑えられて登用されなかったため、姫はしばしば執政に不満をもらしていた。段常が罪を得たのは姫の働きによるものだと、人々は考えた。
英武帝后段氏と継后馬氏
- 英武帝の后の段氏は、かねて孝和帝の后と折り合いが悪かった。まもなく病で薨じ、英武帝が位を継ぐと皇后を追封された。
- 継后の馬氏は左僕射の馬峰の娘である。その最期は分からない。
湘隂公贇――即位を待つ身から廃されるまで
- 湘隂公の贇は世祖の子である。髙祖はこれを愛して自分の子とした。
- 乾祐元年(948年)に武寧軍節度使を拝し、二年に同平章事を加えられた。
- 郭威が慕容彦超を北郊で破った後、隱帝が弑され、威は京師に入った。諸大臣が密かに自分を推戴するものと思っていたが、宰相の馮道らに会うと、道にはまるでその気配がなかった。威はやむを得ず道に会って拝礼したが、道は平常どおりその拝を受け、ゆっくりと「公の道中はさぞ苦労であったろう」とねぎらった。威は表情も気持ちも沈み、大臣たちに自分を推す意がないと悟った。しかし自ら立つのも難しく、王峻とともに太后に申し上げて漢の後嗣を選ぶこととした。群臣はそろって「武寧節度使の贇は髙祖が愛して子とされた方である。嗣に立てるべきだ」と奏上した。
- そこで太師の馮道に百官を率いて迎えに行かせた。道は威の意が贇にないと察し、進み出て「公のこの挙は本心からのものか」と問うた。威は天を指して誓った。道は出発してから左右に「私は生涯うそを言わなかったが、今日はうそを言ってしまった」と語った。
- 道は贇に会って太后の意を伝え、これを召した。贇が発って宋州に至ったとき、威はすでに澶州で兵士に擁立されて京師へ帰っていた。
- 王峻は贇の側近に異変が起こることを慮り、侍衛馬軍指揮使の郭崇威に兵七百騎を率いさせて贇を護衛させた。崇威が宋州に至ると、贇は楼に登って来意を問うた。崇威は「澶州で軍の変事があり、事情がご存じないままではと恐れて崇威を遣わし護衛させたのです。悪意ではありません」と答えた。贇が崇威を召したが、崇威は進み出ようとしない。馮道が出て崇威と語り、崇威はようやく楼に登って贇に会った。
- 当時、䕶聖指揮使の張令超が歩兵を率いて贇の宿衛にあたっていた。判官の董裔は贇に説いた。「崇威の目つきや挙動を見るに必ず異心があります。道々みな郭威がすでに天子となったと申しております。それなのに陛下が奥へ進み続けては禍が及びましょう。急ぎ令超を召して禍福を諭し、夜に兵をもって崇威の属する士卒を襲わせ、翌日は雎陽の金帛を奪って士卒を募り、北へ太原へ走るべきです。あちらは京邑を定めたばかりで我らを追う余裕はありません。これが上策です」。贇はためらって決しなかった。
- その夜、崇威はひそかに令超を誘って郭氏に帰服させ、贇の部下の兵をすべて奪った。
- 郭威は書を送って道を先に帰らせ、その副の趙上交と王度を留めて贇を奉じて太后に朝させることとした。道が贇に別れを告げて先に帰るとき、贇は「寡人がここまで来たのは、公が三十年来の旧相であることを頼んでのこと。それゆえ疑わなかったのだ」と言った。道は黙っていた。
- 贇の客將の賈貞らはしきりに道に目配せして殺そうとしたが、贇は「軽々しいことをするな。この事が公から出たものであろうか」と止めた。
- 道が去ると、崇威は贇を外館に幽閉し、賈貞・董裔および牙内都虞侯の劉福、孔目官の夏昭度らを殺した。
- 郭威がすでに監國となると、太后は誥を下した。「さきに樞密使の威は宗社を安んずる志から長君を立てることを議し、徐州節度使の贇を髙祖の近親として漢の嗣に立て、藩鎮から京師へ召した。しかし誥命はすでに行われたものの軍情は従わず、天道は北にあり人心は東になびかぬ。まさに改めて卜する初めにあたり、分土の命に応ぜしめる」。贇を開府儀同三司・檢校太師・上柱國に降し、湘隂公に封じた。
- 贇はついに殺されて死んだ。
鞏廷美と楊温――徐州の籠城
- 初め、贇が徐州から都へ入るにあたり、右都押牙の鞏廷美と元從教練使の楊溫に徐州を守らせた。
- 廷美と溫は贇が立てられぬと聞き、贇の妃の董氏を奉じて城を閉ざし命に抗した。
- 周の太祖は王彦超を權武寧節度使に任じ、詔を下して廷美・溫を諭し、刺史の位を約した。さらに湘隂公にも書を送って「この者たちが主に心を尽くしたのを思えば、その忠義を賞するに足る。どうして過ちを責められようか。公から意を伝え、なお詳しく示されよ」と述べた。しかし廷美と溫は従わなかった。
- 乾祐四年(951年)三月、彦超が徐州を落とし、廷美・溫はともに殺された。
史論
- 論に言う。歐陽公は、周が廷美らを招いた詔書四通をかつて見たが、いずれも廷美らがすでに周に帰服を申し出ておきながら、後に罪を恐れてふたたび叛いた、と述べていると言う。しかし廷美らの帰服の書状はついに見つからないのだから、周の詔もまた根拠とするに足りない。
- 周が漢に代わったとき、中原はすでに劉氏のものではなかった。それでも廷美と溫だけは、ささやかな孤城をもって贇のために堅く守って死んだ。その始めから終わりまでを辿れば、死節の士に何の恥じるところがあろうか。
- 朱子は『通鑑綱目』に「湘隂公の故將の鞏廷美ら、兵を徐州に舉ぐ」と書いた。まことに春秋の旨を得ている。
世祖の諸子――鎬・錡・錫・鍇・銑
- 世祖の子は十人あり、史籍に見えるのは湘隂公と孝和帝のほか、鎬・錡・錫・鍇・銑である。いずれも英武帝からは叔父にあたる。
- 鎬と錡・錫は兄弟のうちで最も賢行があった。英武帝は小人どもの讒言を用いて別室に幽閉し、一年もたたぬうちにみな獄中で衰え死んだ。
- 鍇と銑も続いて殺されたが、銑だけは愚を装って難を免れた。
- 錡は鐃に作る本もあり、一説には錡と鐃は別人であるという。
劉繼文――世祖の嫡孫
- 繼文は世祖の嫡孫である。堂々たる体躯で器量があり、沈着で寡黙であった。侍衛親軍使を歴任した。
- 天會年間、契丹が罪を問うてきてわが使者数人を拘留した。睿宗はそこで繼文を賀に赴かせ、あわせて赦しを請わせたが、繼文もまた抑留されて帰されなかった。
- まもなく遼主の怒りが解け、使者十六人をすべて帰し手厚く礼遇して送り出したなかに繼文もいた。英武帝の即位三年目のことである。遼主はさらに書を送って繼文を同平章事とするよう命じた。
- 繼文は帰国して国政を執ったが、側近がその寵を妬んでしきりに讒言し、まもなく代州刺史として出された。
- 国が滅ぶとふたたび契丹へ奔り、彭城郡王に封じられ、その国で没した。
劉繼欽――禁衛を委ねられた世祖の孫
- 繼欽は世祖の諸孫の一人。累進して大内都檢㸃に至った。
- 初め、睿宗は英武帝の兄弟がまだ幼弱であったため、繼欽に禁衛の事を掌らせ、その副とした。
- 英武帝が立つと親旧の者を多く誅殺・追放した。繼欽は病と称して辞職を請うたが、英武帝は「繼欽はただ先帝に仕えただけだ。どうして私のために力を尽くそうか」と言い、交城へ退けたうえ、まもなく人を遣わして殺させた。
史論
- 論に言う。鎬・錡・錫・銑の賢さは宗室を支えるに足り、繼文・繼欽の才は外敵を防ぐに足りた。それなのに孝和帝は一族の英才を捨て置いて異姓の者を後嗣に立てた。ついに本支は絶え、国家は滅んだ。莒人が鄫を滅ぼしたのと同様、みずから招いた結果である。
定王繼顒――財を殖やして国用を助けた僧
- 繼顒はもと燕王の劉守光の子である。守光が死んだとき、庶出の子であったため殺されずにすみ、髪を剃って僧となり、のちに五臺山に住した。
- 智謀に富み、財利を殖やすのに巧みで、世祖の時からすでに国はこれに頼っていた。睿宗が位を継ぐと、同姓であることから鴻臚卿を拝した。
- 繼顒は『華嚴經』を講じることができ、手には香りのよい如意を執った。紫檀を透かし彫りにしたもので、その香りは部屋に満ちた。四方の人が争って布施し、多くを蓄えて国用を助けた。
- 五臺山は契丹との境にあたるため、繼顒はしばしば契丹の馬を手に入れて献じた。これを「添都馬」と呼び、年に数百匹に及んだ。
- また華嚴を巡遊した折、地に宝の気があるのを見て、團柏谷に銀の製錬所を置き、民を募って山を鑿って鉱石を採り、銀に精錬させ、官が十分の四を収めた。国用の多くはここから賄われ、その地に寶興軍を置いた。
- 英武帝が立つと、繼顒は後宮に寵姫が多いのを知り、首飾り数百組を献じた。都綂を加えられ、太師兼中書令に進んだ。
- 天會十七年(973年)に没し、定王を追封された。
劉繼業――「楊無敵」
- 劉繼業はもとの姓を楊氏といい、太原の人。父の信は髙祖に仕えて麟州刺史となった。
- 繼業は二十歳のころ世祖に仕え、驍勇をもって知られ、しばしば戦功を立てた。国人は「楊無敵」と呼んだ。睿宗は劉の姓を賜わって諸子と同列に扱った。累進して建雄軍節度使となった。
- 廣運年間、繼業は太原城の東南面を守り、宋軍を数知れず殺傷した。
- 英武帝が宋に降った後も、繼業はなお城に拠って苦戦を続けた。宋の太宗はかねてその勇を聞いて生け捕りにしたいと望み、英武帝に繼業を招くよう諭し、あわせて親信の者を遣わして禍福を説かせた。繼業は北に向かって再拝し、慟哭して甲を脱ぎ、汴京へ入った。
- 太宗は長く慰撫し、もとの姓に復させ、名を「業」だけとし、左領軍衛大將軍を授けた。ほどなく代州刺史を拝し、契丹の兵を鴈門で破り、その将の蕭徹爾を殺した。
- 数年後、契丹の耶律色珍と陳家谷で戦って敗死し、太尉を贈られた。子は六人、延朗・延浦・延訓・延瓌・延貴・延彬で、事跡は『宋史』に見える。
劉繼忠――忻州赴任を拒んで殺される
- 劉繼忠は少主の弟で、やはり睿宗の養子となり劉の姓を賜わった。
- 睿宗の病が重くなると、郭無為は公族をすべて退けるよう建議し、繼忠を出して忻州を守らせた。
- 繼忠は「かつて契丹へ使いした折に冷えの痼疾を得た。定襄の地は寒いので、晉陽に留まって養生したい」と申し立てた。
- 当時、少主が監國しており、その日和見を責めて出発を促した。繼忠がかなり恨みごとを口にしたので、これを少主に告げる者があり、まもなく縊り殺された。