十国春秋十國春秋卷一百五 北漢二
北漢の後半三代、睿宗劉鈞(承鈞)・少主劉繼恩・英武帝劉繼元を記す。睿宗は世祖の次子で、遼に「兒皇帝」と称して仕え、政に励んで領内をどうにか安んじた。少主は養子の繼恩で、即位六十余日で侯霸榮に弑され、郭無為に擁立された繼元が継いだ。繼元は苛酷で宗室・臣下を多く殺し、宋の太宗の親征に屈して降り、北漢は四主二十九年で滅んだ。
年表(25件)
- 天成元年丙戌926年睿宗(承鈞)が世祖の次子として生まれる
- 乾祐八年955年蜀主の使者と、共同で出兵して周を攻めることを約す
- 乾祐九年956年世祖を交城の北山に葬り、喪が明けて翌年を天會元年と改める
- 天會元年957年大赦して子の繼恩を太原尹とし、ひそかに南唐・後蜀と結んで外援とする
- 天會二年958年周の楊廷璋・李筠・李謙溥に隰州・石會關・孝義で相次いで破られる
- 天會三年959年周の李筠に遼州を陥とされ、楊廷璋に堡寨十三を降される
- 天會四年960年宋に抗した李筠を西平王に封じて援けるが、澤州で敗死し軍を引き揚げる
- 天會七年963年謀反の供述が及んだ樞密使の段常を汾州に出したうえ縊り殺す
- 天會七年963年宋の王全斌に樂平を陥とされ、靜陽の十八砦が相次いで降る
- 天會七年963年郭無為を同平章事とし、趙𢎞を汾州に出して機務をすべて委ねる
- 天會七年963年遼主から改元・李筠援助・段常殺害の三罪を責められ、以後使者は抑留される
- 天會八年964年宋の曹彬らに遼州・石州を攻められ、杜延韜が城を挙げて降る
- 天會十二年968年郭無為に後事を託して薨去。年四十三、諡は孝和皇帝、廟号は睿宗
- 天會十二年968年養子の繼恩が位を継ぐが、在位六十余日で侯霸榮に弑される
- 天會十二年968年郭無為が御しやすいとして弟の繼元を立てる
- 天會十三年969年宋帝が親征して太原を包囲し、汾水・晉水を堰いて城に注ぐ
- 天會十三年969年宋軍が病と長雨で撤退し、降伏を謀った郭無為が誅される
- 天會十七年973年従兄で大内都檢㸃の繼欽を殺し、遼に改元の伺いを立てる
- 廣運元年974年正月、改元する
- 廣運二年975年遼が宋と和して出兵を禁じたので慟哭し、六月に大漢英武皇帝に冊される
- 廣運三年976年宋の黨進・潘美らが五道から侵入し、太原の城北でたびたび破られる
- 廣運六年979年宋帝の親征で太原を囲まれ、五月に白衣紗帽で降って彭城郡公に封じられる
- 廣運六年979年州十・軍一・県四十一、戸十三万五千二百二十を宋に併せられ、北漢が滅ぶ
- 淳化年間(990-)994年保康軍節度使のまま薨じ、中書令を贈られ彭城郡王を追封される
- 天禧四年1020年子の守節が特に右武衛將軍に遷る
睿宗の出自と生い立ち
- 睿宗は名を鈞、初めの名を承鈞といい、世祖の次子である。後唐の天成元年丙戌(926年)に生まれた。
- 幼くして聡明で、性は孝順で慎み深く、学を好み、書を能くした。
- 世祖が崩じると、承鈞は「服喪に日をもって月に代えるのは礼ではない」として、三年の喪を行い始めた。
- 遼に表を奉り、みずから「男(むすこ)」と称した。遼主の裕嚕は詔をもって答え、「兒皇帝」と呼び、驃騎大將軍・知内侍省事の劉承訓を遣わして承鈞を天子に冊命した。名を鈞と改めた。時に二十九歳であった。そのまま乾祐の年号を用い、改元しなかった。
乾祐八年(955年)
- 春二月庚子朔、日食があった。
- 庚申、遼に使者を遣わして天順皇帝に尊号を加えることを請うたが、許されなかった。
- 夏六月丁未、蜀主が使者を遣わして共同出兵して周を攻めることを約し、これを許した。
乾祐九年(956年)
- 夏四月、神武皇帝を交城の北山の上に葬り、廟号を世祖とした。
- 六月甲子、遼に使者を遣わして軍事を協議した。
- この冬、喪が明け、翌年を天會元年と改めた。
天會元年(957年)
- 春正月己丑朔、大赦を行った。子の繼恩を太原尹、翰林學士の衛融を中書侍郎・同平章事、内客省使の段常を樞密使とし、侍衛都指揮使の蔚進に親軍を掌らせた。ひそかに江南(南唐)・西川(後蜀)と結んで外援とした。
- 夏五月辛卯、遼に使者を遣わして方物を貢いだ。
- 秋七月、初めて七廟を髙祖の旧邸に立て、顯聖宮と号した。
- 冬十月癸亥、麟州刺史の楊崇訓が城を挙げて周に降り、周は麟州防禦使とした。
- 十一月、遼が大同節度使・侍中の髙勲に兵を率いさせ、李存瓌と合流して周を撃たせたが、潞州の城下まで至って引き返した。帝は契丹が頼るに足りぬと知りながら、急に絶交する勇気はなく、勲に手厚く贈った。
- 十二月、唐(南唐)の使者の陳處堯が契丹から太原に遊びに来た。帝は手厚く礼遇し、数日留めたのち北へ帰した。
天會二年(958年)
- 春正月丙子、周の建雄節度使の楊廷璋がわが兵を隰州の城下で破った。当時、周の隰州刺史の孫議が急死し、廷璋は檄をもって都監・閑廐使の李謙溥に州事を代行させた。まもなくわが兵が至って城を攻めたが久しく落とせず、廷璋はひそかに謙溥と約してそれぞれ決死の士百人を募り、わが陣営を襲った。わが兵は驚いて潰え、囲みを解いて帰った。
- 夏六月壬子、周の昭義節度使の李筠が石會關を侵し、六つの寨を抜いた。乙卯、周の李謙溥が孝義を陥れた。
- 冬十一月、遼に使者を遣わして周がふたたび侵してきたことを告げた。乙丑、重ねて遼に使者を遣わした。十二月庚辰、また遼に使者を遣わした。
- この冬、国中に大雪が降り、国人は「生怕赤真人 都來一夜春(赤き真人こそ恐ろしい、一夜のうちに春が来る)」と唱えた。人はこれを宋が天命を受ける前兆とした。
天會三年(959年)
- 夏四月戊戌、遼は南京留守の蕭思温を兵部都總管として周軍を撃たせた。
- この月、周が契丹を攻めて益津・胡橋・淤口の三関を抜いた。遼主は使者を遣わして急を告げた。
- 五月乙巳朔、周軍が瀛州・莫州の二州を陥れた。帝は兵を発して周の辺境を撹乱するよう命じ、日に七百里を駆ける使者を遣わしたが、周主が南へ帰ったため取りやめた。
- 庚戌、周の李重進が兵を率いて土門を出て侵入した。己巳、わが兵を百井で破り、二千余級を斬った。
- 六月、周の李筠が侵入して遼州を陥れ、わが刺史の張丕を捕らえた。辛巳、周の楊廷璋が辺境を侵し、わが堡寨十三を降した。
- この月、周主が崩じ、梁王の宗訓が立った。
- 冬十一月、遼軍がわが兵と合流して周の鎭州・定州の二州を攻めることを謀った。
天會四年(960年)
- 春正月乙巳、周が宋に禅譲し、宋は建隆と改元した。
- 夏四月、周の昭義節度使の李筠が挙兵して宋に抗し、澤州刺史を殺してその城に拠った。まもなく牙將の劉繼冲と判官の孫孚を遣わして表を奉り臣を称し、その監軍の周光遜と閑廐使の李廷玉を捕らえてわが国へ送り、援兵を乞うた。
- 帝は遼に諮ろうとしたが、繼冲は筠の意を述べて契丹の兵は用いないよう請うた。帝はそこで自国の兵を率いてみずから團柏谷へ出た。群臣が汾水で見送ったが、僕射の趙華ひとりが「筠の挙兵は軽率で頼りにできません」と述べた。
- 帝は太平驛に至り、筠を西平王に封じた。筠は帝の儀衛が整わず王者らしくないのを見て内心深く悔い、そのうえで自ら「郭氏の恩を受けた身で、死を惜しむわけにはいかぬ」と述べた。帝は周と代々の仇であるからその言を喜ばず、宣徽使の盧賛にその軍を監させた。筠はますます不満を抱き、賛としばしば衝突した。そこで長子の守節を潞州に残し、みずから兵を率いて南へ向かった。
- 帝は賛と筠が不和と聞き、平章事の衛融を遣わして和解させた。この月、河陽節度使の范守圖に兵を率いて筠を援けさせた。
- 夏五月乙亥朔、日食があった。癸卯、宋将の石守信が李筠を長平で破った。壬子、潞州が帰属したことを遼に使者を遣わして告げた。
- 丁巳、宋帝が筠を親征した。丁卯、宋の石守信・髙懷徳が筠の兵を大破し、盧賛は戦死した。筠は澤州へ逃げて守り、宋帝は柵を並べて包囲した。
- 六月辛未、澤州が陥落し、李筠は火に飛び込んで死に、衛融は捕らえられた。宋帝は鉄の撾で融の頭を打ったが死なず、そこで釈放した。帝は恐れて軍を引き揚げた。
- 乙酉、宋帝が潞州を攻めた。丁亥、李守節が潞州を挙げて宋に降った。甲午、宋将の折徳扆がわが兵を沙谷砦で破った(五百級を斬った)。
- この月、宋兵が石州を包囲した。帝は遼に使者を遣わして告げ、遼は阿喇に四部を率いて救援させ、さらに蕭思温に三部の兵で助けさせた。
- 秋九月壬寅、宋の昭義節度使の李繼勲が平遙縣を侵し、俘虜が甚だ多かった。
- 十月乙酉、宋の晉州兵馬鈐轄の荆罕儒が汾州を襲って戦死した(救援しなかった罪で石進ら二十九人が処刑された)。
天會五年(961年)
- 冬十二月乙未、李繼勲がわが兵を大敗させ、遼州刺史の傅廷彦とその弟の勲を捕らえた。
天會六年(962年)
- 春二月、わが兵が晉州・潞州の二州を侵したが、宋の守将に敗れた。
- 三月、宋は詔してわが国からの降人を邢州・洺州に移住させ、人口に応じて粟を給した。
- 夏四月、宋は郭進に西山を押さえさせ、武守琪に晉州を守らせ、李謙溥に隰州を守らせて、わが軍に備えた。
- この月、太原の民でひそかに逃亡して宋に降った者が四百七十人あった。
- 秋七月、捉生指揮使の路貴ら十一人が宋に降り、宋はいずれも内殿直に補した。
天會七年(963年)
- 春二月、遼に使者を遣わし、わが国が辺境を巡視したいので声援を張ってほしいと乞うた。
- 秋七月、宿衛殿直行首の王隱・劉紹・趙鸞らが乱を謀ったが発覚して誅された。供述が樞密使の段常に及び、常を汾州刺史として出したが、まもなく縊り殺した。
- この月、宋軍が辺境を侵そうとしていることを遼に告げた。
- 八月、宋の王全斌が侵入して樂平を攻めた。拱衛指揮使の王超、㪚指揮使の元威・侯霸榮が部下千八百人を率いて降った。侍衛都指揮使の蔚進、馬軍都指揮使の郝貴超が契丹と全軍を挙げて救援に赴いたが、三度戦って三度とも敗れ、樂平は陥落した。
- 宋は樂平を平晉軍と改め、降卒を效順軍とし、銭と帛を賜わった。これにより靜陽の十八砦が相次いで宋に降った。
- 九月、わが軍は契丹の兵とともに平晉軍を攻めたが、宋の雒州防禦使で西山巡檢を兼ねる郭進が兵を率いて撃ってきたため、契丹の兵は引き揚げた。
- 冬十月丙申、宋の侵攻を遼に告げた。抱腹山の人の郭無為を同平章事とした。帝は潞州の敗戦以来、日々宋軍の到来を恐れ、趙𢎞を相としたうえ、さらに無為を召して中書に参議させ、また五臺山の僧の繼顒を鴻臚卿に署して国政に参与させた。のちに𢎞と無為の議論が合わなくなり、𢎞を汾州に出し、機務はすべて無為に委ねた。
- 十二月、帝は甥で侍衛親軍使の劉繼文を遼に遣わしたが、遼はこれを拘留して帰さなかった。
- これより先、世祖は事を起こすたびに必ず遼に伺いを立て、歳ごとの使者が絶えなかった。しかし帝が立つと礼文がおろそかになったため、遼主は書を送って、擅に改元したこと、李筠を援けたこと、段常を殺したことの三つの罪を責めた。帝は恐懼して繼文を遣わして「父の罪は子が隠すものです。どうかお赦しを」と謝した。これ以後、契丹の使者は来ず、こちらから遣わした使者はそのつど抑留されたため、群臣はみな北への使行を恐れた。
- 乙亥、衛州刺史の楊璘が宋の折徳扆に捕らえられた。
- この年、宋は乾徳と改元した。
天會八年(964年)
- 春正月、宋帝がわが国を取ろうと謀った。宰相の趙普は諫めて「太原は西北の二面に当たっております。太原が下れば、その二辺の患いを我らが独りで受けることになります。諸国を平定するのを待つに越したことはありません。太原は弾丸のごとき小地、どこへも逃れられますまい」と言い、宋帝はこれに従った。
- 戊戌、帝は宋軍が襲来しようとしていることを遼に急報した。
- 二月、宋は曹彬を遣わして李繼勲および兵馬鈐轄の康延沼、馬步軍都軍頭の尹訓と合流させ、兵を率いて侵入し遼州・石州の二州を攻めた。帝は郝貴超を援けに遣わし、遼州の城下で戦ったが、わが軍は大敗した。遼州刺史の杜延韜は拱衛都指揮使の冀進、兵馬都監の侯美とともに部下の兵三千人の名簿を携え、城を挙げて宋に降った。
- 宋は延韜らに襲衣・銀帯・器幣・鞍と轡付きの馬を賜わり、降卒を「效順」「懷恩」と名づけた。
- 壬子、遼の西南面招討使の塔喇が六万騎を率いて救援に来た。壬申、わが兵が宋兵を石州で破り、使者を遣わして遼に告げた。
- 三月、耀州團練使の周審玉ら四人が叛いて宋に降った。宋は審玉に襲衣・金帯・絹千匹・銀五百両・鞍と轡付きの馬を賜わり、承瑨の名を与え、左千衛大將軍・領汾州團練使とした。
- 夏四月乙巳、宋軍を撃退したことを謝して遼に使者を遣わした。宋は馬軍都校の劉光を遣わして潞州を守らせ、わが軍に備えた。
- この年、蜀主の孟昶が使者に帛書を持たせてわが国と誼を通じた。その大意は「早くに一通の書をお送りし、御耳に達した。真心は筆墨に尽くし、友誼の盟はすでに金蘭のごとく固い。周を弔い伐つという吉報を伝え聞き、まことに輔車相依るの喜びの色が動いた」というものであった。この書は国境で宋の辺吏に押収された。
天會九年(965年)
- 春二月壬寅朔、日食があるはずであったが欠けなかった。
天會十年(966年)
- 春正月、宋の安國節度使の羅彦瓌らがわが兵を靜陽で破り、守将の鹿英を捕らえて帰った。
- 夏六月甲辰、月が心宿の前星を犯した。
- 秋七月、遼に使者を遣わして金器と鎧甲を貢いだ。
- 冬十月、帝の母の皇太后(闕)氏が薨じた。庚辰、遼が使者を遣わして賻物を贈り弔問した。
- 十二月、ふたたび宋から遼州を奪回した。戊辰、遼に使者を遣わして貢いだ。
天會十一年(967年)
- 春三月、五星が奎宿に集まった。招收指揮使の閻章が石盆砦を挙げて宋の鎭州に降った。
- 夏四月、鴻唐砦の招收指揮使の樊暉が監軍の成昭を殺して叛き、宋に降った。
- 六月戊午朔、日食があった。
天會十二年(968年)
- 春正月、偏成砦の招收指揮使の任恩ら百五十人が宋の晉州に赴いて降った。
- 三月、宋の鎭州の守将がわが馬鞍山砦を破った。
- 秋七月、烏玉砦の砦主の胡遇ら百三十九人が宋の鎭州に赴いて降った。
- 帝は李筠が敗れて狼狽して帰って以来、さらに遼の歓心を失い、勢力は窮迫し、憂いに病んで勤政閣に臥した。郭無為を召して手を執り、後事を託した。
- 戊申、ついに薨じた。享年四十三。養子の繼恩が立ち、諡を孝和皇帝、廟号を睿宗と奉った。
- 帝は位を継いでのち政に励み、民を愛し士を礼遇したので、戦乱が絶えなかったにもかかわらず領内はどうにか安らかであった。
- かつて宋の太祖は国境の間諜を通じて帝に言った。「君の家は周と代々の仇であるから、屈しないのももっともだ。今、私と君の間には何の恨みもない。なぜこの一方の民を苦しめるのか。もし中国に志があるなら、太行を下って勝負を決すればよい」。
- 帝は間諜に返答させた。「河東の土地も兵甲も、中国の十分の一にも当たりません。しかし鈞は代々叛いてきた者ではありません。ささやかにこの地を守るのは、ひとえに漢氏の祭祀が絶えることを恐れるからです」。
- 太祖はその言を哀れみ、笑って間諜に「私のために鈞に伝えよ。お前に一筋の生きる道を開いてやろう、と」と言った。それゆえ帝の存命中は大挙して兵を加えることはなかった。
少主の出自と生い立ち
- 少主の繼恩はもと薛氏の姓である。父の釗は晉の初めに䕶聖營の卒であり、世祖の娘を娶って繼恩を生んだ。
- 髙祖は禁兵を統率していたが、釗が従子の婿にあたるので軍籍から外して手元に置いた。しかし釗は才能がなく、衣食を与えられるだけで用いられることはなかった。
- 髙祖がのちに方鎮を領して爵位が高くなると、世祖の娘は永寧公主に準ずる扱いを受けた。姉妹の格である。
- 娘は貴人として驕り、奥に居て釗はめったに会えなかった。釗は鬱屈し、ある日、酔いに乗じて面会を求め、佩刀を抜いて刺した。娘は衣を振り払って逃れ、傷を負ったが死ななかった。釗はその場で自害した。
- 当時、繼恩はまだ幼く、世祖は睿宗に嗣子がなかったため養子とさせた。のち世祖の娘は何氏に再嫁して繼元を生んだが、まもなく何氏が死に、娘も没した。睿宗はさらに繼元も引き取って子とした。
- 睿宗は日頃から郭無為に「繼恩はとうてい世を済う才ではない」と語っていたが、無為は黙って答えなかった。
天會十二年(968年)(少主の即位と弑殺)
- 睿宗が薨じると、繼恩は契丹に哀を告げ、そののち皇帝の位を継いだ。帝は縗裳を着けて政務を執り、寝起きも勤政閣で行い、孝和帝の旧来の執事・百司・宿衛はみな太原府の役所に置いた。
- 帝は無為が初め自分を助けなかったことを恨み、また専権を憎み、守司空を加えて表向き厚遇しながら内心では遠ざけた。時に天會十二年七月である。
- この月、遼が使者を遣わして弔祭した。
- 八月戊辰、宋はわが国に喪があると聞き、内客省使の盧懷忠ら二十二人に禁兵を率いさせて潞州へ赴かせた。昭義節度使の李繼勲を行營前軍都部署、侍衛步軍都指揮使の黨進をその副、宣徽使の曹彬を都監、棣州防禦使の何繼筠を前鋒部署、懷州防禦使の康延沼を都監、建雄節度使の趙賛を汾州路部署、絳州防禦使の司超をその副、隰州刺史の李謙溥を都監とし、兵を率いて大挙して侵入した。
- 九月庚子、帝は劉繼業・馬峰らに軍を率いて團柏谷を扼させた。峰が銅鍋河に至ったとき、李繼勲の前鋒将の何繼筠がわが兵を撃破し、三千級を斬った。そのまま汾河橋を奪い、太原の城下に迫って延夏門を焼いた。左勝軍使の李瓊が叛いて宋に降り、宋は瓊に襲衣・金帯・鞍と轡付きの馬を賜わった。帝は大いに恐れた。
- 帝は郭無為を追放しようとしたが、一月余りたっても決断できなかった。帝は当時ひとり一室にこもって喪に服し、左右の親信も従うことができなかった。無為を召すよう勧める者もあったが、帝はためらって決しなかった。
- 己酉、供奉官の侯霸榮が十余人を率い、刃を抜いて閣に入り、内側から戸を閉ざした。帝は驚いて起ち、屏風を巡って逃げたが、霸榮は刃でその胸を刺し弑した。
- 無為は人を屋根に梯子で登らせて中に入らせ、霸榮とその一党を殺した。帝の在位はわずか六十余日であった。太原の人は、無為が霸榮に指図したうえで急いで殺して口を封じたのだと疑ったが、側近も結局明らかにできなかった。
- 無為は群臣と議して帝の弟の繼元を立てようとした。平章中書事の張昭敏ひとりが「少主は劉氏でないゆえに位を全うできなかった。今は宗姓の者を立てて民望に応えるべきです。世祖の嫡孫の繼文は久しく契丹に留まって危難を経ております。迎えて立てれば宗社を固め強い援けを結べましょう」と言った。無為は従わず、繼元が御しやすいとしてこれを立てた。
英武帝の出自と即位まで
- 英武帝の繼元は、天會の初めに檢校司徒・歸義府都督を授かり、まもなく太保を加えられ、右金吾衛大將軍に遷って大内都㸃檢を兼ねた。少主のときさらに太師兼太原尹に進んだ。
- 位を襲うと、そのまま天會の年号を用いて改元しなかった。
天會十二年(968年)(英武帝の即位)
- ふたたび契丹と誼を修め、十二年十一月に使者を遣わして即位を告げ、あわせて出兵を乞うた。遼主の烏里は塔喇を兵馬總管として諸道の兵を率いさせ救援した。
- 宋もまたわが国に降伏を諭す詔を下し、帝に平盧節度使を授けると約し、さらに郭無為には別に詔を賜わって安國節度使を約した。無為は詔を得て顔色を変え、帝に帰順を勧めたが、帝は従わなかった。
- 初め、宋は間諜の惠璘に殿前指揮使を名乗らせ、罪を得て亡命してきたと偽らせた。無為はその企みを知りながら供奉官に署した。ここに至って宋軍が国境に入ると璘はただちに走ったが、嵐谷で候吏に捕らえられ太原へ送られた。帝は無為に取り調べさせたが、無為は釈放して不問に付した。李超という者が璘の奸状を暴いて上申すると、無為は怒って超もろとも斬り、口を封じた。
- まもなく宋の李繼勲らは契丹の兵が来ると聞いてみな引き揚げた。わが兵はそこで晉州・絳州の二州を大いに掠奪した。
- この月、帝は孝和帝の后の郭氏がもとの后の段氏を殺したと疑い、寵臣を遣わして喪中の后を殺させた。
- 帝は残忍で無礼な人柄で、宮中の嬪御は逼迫や辱めを受けて憚るところがなく、世祖の子十人、鎬・鍇らはみな幽閉されて死んだ。
天會十三年(969年)
- 春二月、宋帝が汴を発つにあたり、先に李繼勲・趙賛・郭進・司超らに兵を率いて晉陽へ赴かせた。この戦役に際し、宋帝は臣の魏仁浦に「朕は太原を親征しようと思うがどうか」と問うた。仁浦は「速やかならんとすれば達せずと申します。どうか陛下は慎重に」と答えたが、宋帝は聴かなかった。
- 三月、宋帝が太原に至った。わが太谷令の梁文陟を太子洗馬、祁令の張續を右賛善大夫とした。
- 城下に至ったとき、李繼勲がすでにわが兵を破っていた。宋帝は長連城を築いて包囲させ、城の四面に寨を立てた。繼勲は南、趙賛は西、曹彬は北、黨進は東に軍した。帝は劉繼業らに闇に乗じて門から突出して東西の寨を襲わせたが、敗れて逃げ帰った。
- 宋帝はさらに汾水・晉水の二水を堰き止めて城に注がせた。太原の人は大いに恐れたが、たまたま城中の積み草が漂い出て穴をふさぎ、被害を免れた。
- 郭無為はまた帝に降伏を勧めたが、帝はなお遼の援けを頼みとして許さなかった。ある日、群臣との宴席で無為は庭で号泣し「空城をもって百万の師に抗して何になろう」と言い、佩刀を抜いて自刺しようとして衆の心を動かそうとした。帝は急いで階を降りてその手を執り、引き上げて座らせ、事なきを得た。
- 甲寅、遼に使者を遣わして封冊を乞い、あわせて援軍を促した。甲子、使者を遣わして遼に白い麃を進めた。
- この月、宋はまた海州刺史の孫方進を遣わして滄州を包囲した。城壁を守る者たちは「今にも契丹の兵が来る」と声高に言い立てた。
- 夏四月、契丹の兵が道を分けて救援に入った。宋の何繼筠が陽曲の北で迎え撃ち、韓重贇が定州で迎え撃ち、契丹の兵は大敗した。宋帝は獲た首級と鎧甲を太原の城下に示させた。
- 憲州判官の史昭文と嵐州刺史の趙𢎞が、それぞれ城を挙げて宋に降った。
- 五月、李匡弼・李元素らを遼に遣わして天清節を賀した。
- 閏月、遼主が韓知璠を遣わして帝を大漢皇帝に冊立した。知璠は兵事に習熟しており、囲みの中の城に居て昼夜督察し、心を尽くして固守した。宋の驍将の石漢卿らは多く戦死したが、わが兵もしばしば敗れた。ある日、わが兵が西の長連城から出て宋の攻城具を焼こうとしたが、逆に宋軍に撃退され、一万余級を斬られた。
- その夜、間諜が突然「帝が降った」と壁の外で触れ回った。宋帝は衛士に甲を着けさせ壁の門を開かせようとしたが、八作使の趙璲が「降を受けるのは敵を受けるのと同じ。夜半に軽々しく出るべきではありません」と言い、宋帝は取りやめた。
- 契丹はさらに南大王を遣わして救援した。宋の都指揮使の李懷忠は「敵の勢いはすでに窮している。精兵を選んで急攻すれば、陥落は目前です」と言い、殿前都虞候の趙廷翰は先登して死力を尽くしたいと請うた。
- 宋帝は許さず「お前たちはみな朕が訓練した者で、一人で百人に当たらぬ者はない。肘腋の備えとして休戚をともにするためだ。朕は太原を得られずともよい。どうしてお前たちを刃に冒させ必死の地に踏み込ませられようか」と言った。衆はみな感泣した。
- そのころ宋軍は甘草の生い茂る地に駐屯していたが、暑さと雨に遭って兵士に病が多かった。太常博士の李光賛は撤兵を請うて言った。「わずかな晉陽ごときになぜ親征し、輸送に重ねて労し、民の怨みを買われるのか。汴都へ鑾を返し、上黨に兵を屯し、夏にはその麦を取り秋にはその禾を取れば、力役の徴発も緩み、それこそが平定の策となりましょう」。宋帝が趙普に問うと普も同意し、そこで兵を分けて鎭州・潞州に屯させ、太原の民一万余戸を山東・河南に移し、軍を引き揚げた。
- 帝は城下の水を切って臺駘驛に注がせた。水が引いた後、城壁は多く崩れていた。韓知璠は嘆いて「宋軍が水を引いて城を浸したのは、一を知って二を知らぬものだ。もし先に浸してから涸らしていたら、太原の人は一人も生き残らなかったろう」と言った。
- 帝はまた宋が棄てた軍需を接収し、粟三十万、茶と絹をそれぞれ数万を得た。敗戦の後、これによってどうにか凌ぐことができた。
- この月、郭無為が誅された。初め、太原が囲まれ南城が汾水に陥ったとき、宋帝は長い堤に至って眺めていた。無為は降ろうと謀り、みずから兵を率いて夜に宋軍を撃ちたいと請うた。帝は精甲千人を選んで無為に付け、みずから延夏門に登って送り出した。無為は北橋まで行ったところで風雨に遭って引き返した。ここに至って宦官の衛徳貴がその事を告発し、あわせて無為が土地を献じようとした企みの痕跡がしばしば露われており罪は赦せないと述べたため、この処分となった。
天會十四年(970年)
- 春正月、契丹がわが使臣十六人を返し、あわせて世祖の孫の繼文を平章事、李匡弼を樞密使とするよう詔した。
- 当時、韓知璠は帰国して、わが国は諸事が滞り輔弼の臣がいないと述べ、政事令の趙髙勲もまた「晉陽は父子の国である。その使者をことごとく拘留するのは道理がない」と述べたため、この命が下ったのである。
- のちに側近が繼文を讒言したため、帝は繼文を代州刺史、李匡弼を憲州刺史として出した。繼文はついで鴈門節度使に遷った。
- 夏四月辛未朔、日食があった。
- 冬十二月、僧の繼顒を大師兼中書令とした。庚午、遼に使者を遣わして貢いだ。
天會十五年(971年)
- 冬十月癸亥朔、日食があった。癸未、遼に使者を遣わして貢いだ。
- 十二月、遼主の子の隆緒が生まれた。
天會十六年(972年)
- 春二月癸亥、遼主に皇子が生まれたので使者を遣わして賀した。
- 秋九月丁巳朔、日食があった。
- 冬十二月乙卯、大雪が降った。この年は大飢饉であった。
天會十七年(973年)
- 春正月、遼に使者を遣わして貢いだ。
- 夏六月、使者を遣わして宋の情勢を遼に告げた。
- 冬十二月、帝は従兄で大内都檢㸃の繼欽を殺した。戊戌、帝は改元しようとして、遼に使者を遣わして伺いを立てた。
- この年、僧の繼顒が没し、定王を追封された。
廣運元年(974年)
- 春正月、改元した。
- 二月庚辰朔、日食があった。
- この月、遼は涿州刺史の耶律察密に命じて宋の雄州に書を送らせ、誼を通じることを請うた。宋は知州の孫全興に返書させてこれを許した。
廣運二年(975年)
- 春二月癸亥、鴈門節度使で皇帝の従兄の繼文を遣わして遼に方物を貢いだ。
- 三月、遼が宋と和を求めた。使者を遣わしてわが国に、宋と誼を通じ、みだりに兵を起こさぬよう命じてきた。帝はその命を聞いて慟哭し、兵を出して契丹を攻めようと謀ったが、宣徽使の馬峰が固く諫めてやめた。
- 夏六月、遼主が帝を大漢英武皇帝に冊し、御衣・玉帯・鞍馬などの品を賜わった。
- 甲子、彗星が東方に現れ、長さは四丈であった。
- 秋七月辛未朔、日食があった。
- このころ隆州城を祁縣の東三十里に築き、宋軍に備えた。
廣運三年(976年)
- 秋八月癸卯、遼に使者を遣わし、天賛皇帝の天清節にあたりわが国で無遮会を設け僧に飯を供して福を祈ったことを述べた。己酉、宋の情勢を遼に告げた。
- この月、宋の侍衛都指揮使の黨進、宣徽北院使の潘美および楊光美・牛思進・米文義が兵を率いて五道に分かれて侵入した。さらに郭進・郝崇信・王政忠・閻彦進・齊超・孫晏宣・安守忠・齊延琛・穆彦超らを遣わして、忻・代・汾・沁・遼・石などの諸州に分かれて侵入させた。
- 諸将は至るところで勝ち、わが兵を太原の城北で破った。このときわが間諜の趙訓が宋の青州の将に捕らえられたが、宋帝は釈放し、服装を給して帰らせた。
- 九月壬午、帝は遼に援軍を乞い、遼主は南府宰相の耶律舒と冀王の迪里に救援を命じた。戊子、さらに駙馬都尉の盧俊を遼に遣わして急を告げた。
- この月、わが軍は黨進と太原の城北で遭遇して敗れ、兵馬千余を失った。郭進は山北のわが民三万七千人を掠奪した。
- 冬十月、宋の遼州監押の馬繼恩が太原の領内に入り、四十余の砦を焼き、牛羊数千を掠奪した。郭進は壽陽を陥れてわが民九千人を掠奪し、穆彦超は太原の領内に入ってわが民二千人を掠奪した。黨進はまたわが兵を太原の城下で破った。
- この月、宋帝が崩じ、晉王の光義が即位して太平興國と改元し、諸将を召還した。
- 辛丑、宋軍が退いたことを謝して遼に使者を遣わした。
- 十二月丁未、宋軍がふたたび来て軍需を掠奪したことを遼に告げ、あわせて糧の援助を乞うた。
廣運四年(977年)
- 春三月癸亥、耶律舒迪里が帰還し、援軍が獲た宋の俘虜を献じた。戊辰、遼主は詔して粟三十万を助けとして送った。
- 夏五月、遼に使者を遣わして謝し、あわせて宋の情勢を告げた。
- 秋七月壬申、宋人がわが国を侵していることを遼に告げた。丙子、遼が使者を遣わして軍馬を助けた。
- 八月、遼に葡萄酒を貢いだ。
- 冬十月乙酉、ふたたび使者を遣わして宋の情勢を遼に告げた。
- この年、胡桃砦の指揮使の史溫らが叛いて宋についた。宋帝は齊王の廷美に「太原は朕が必ず取る」と言った。
- 夏州の定難節度使の李繼筠が侵入して吳堡砦を攻め、七百級を斬り、牛羊千頭ばかりを掠奪し、わが砦主の侯遇を捕らえた。
廣運五年(978年)
- (記事なし)
廣運六年(979年)
- 春正月、宋が初めて挙兵を議した。宋臣の薛居正らは多く不可とした。
- 曹彬は「国家の兵甲の精鋭をもってすれば、太原の孤塁を除くのは枯木を摧き朽木を折るようなものです」と言い、宋帝の意は決した。
- 潘美を北路都招討使とし、崔彦進・李漢瓊・劉遇・曹翰・米信・田重進を率いさせ、道を分けて汾・沁・嵐の諸州を包囲させた。また郭進を太原石嶺關都部署として燕・薊からの援軍を断たせた。
- 当時、夏州の定難節度使の李繼筠も将の李光遠・光憲を遣わして番漢の兵を統べさせ、黄河を渡って太原の領内を侵し、宋軍の勢いを助けた。
- 乙酉、遼が塔瑪・長夀を宋に遣わして、わが国を侵す挙兵の理由を問うた。宋帝は「河東が命に逆らったので罪を問うのだ。北朝が援けぬなら和約はもとのまま、さもなくば戦うのみ」と答えた。
- 二月甲子、宋帝がみずから軍を率いて攻め来たり、汴京を発した。齊王の光美に扈従を命じた。
- 丁卯、帝は宋軍が国境に迫ったため、遼に使者を遣わして援けを乞うた。
- 戊寅、宋帝は澶州に宿営した。太僕寺丞の宋捷という者が道端で出迎え謁見した。宋帝はその姓名を見て「わが軍は捷たん」と喜んだ。
- 三月庚辰朔、遼主は南府宰相の耶律舒を都統、冀王の迪里を監軍として救援に遣わし、さらに南院大王の色珍にその部下を率いて従わせ、樞密副使の耶律穆濟に監督させた。
- 丙戌、遼主は北院大王の錫達・伊實王の薩哈勒らに兵をもって燕を守らせる詔を下した。
- 己丑、帝はふたたび蠟丸の帛書で宋兵の侵入を遼に告げた。遼は大將軍の哈布爾と大同節度使の耶律善補に本路の兵で南へ援けさせた。
- 丁酉、耶律舒らが宋将の郭進と白馬嶺で遭遇した。契丹の兵は大きな谷川に阻まれ、沙は諸将とともに後続の軍の到着を待って戦おうとしたが、冀王の迪里と監軍の穆濟らは急襲が有利だと主張し、沙は押し切れなかった。
- 迪里らが先鋒として谷川を渡ったが、半ばも渡らぬうちに宋人に撃たれ、兵は潰えた。迪里とその子の烏格、實の子の達爾、圖魯卜部節度使の圖敏、黄皮室詳衮の唐古ら五将がともに没し、士卒の死傷も甚だ多かった。南院大王の色珍の兵が到着して一万の矢を一斉に放ち、ようやく敵軍は退いた。
- 夏四月辛亥、帝は軍事の次第を遼に奏し、駙馬都尉の盧俊は代州から遼へ書状を馳せて急を告げた。
- 宋帝が鎭州を発し、宋の行營都監の折御卿が兵を分けて岢嵐軍を攻め、嵐州を陥れた。癸亥、宋の解暉らが隆州を陥れた。
- 庚午、宋帝は太原に宿営し、汾東の行營に駐まった。辛未、太原城に至った。潘美らはしばしばわが兵を破り、進んで土城を築き、長い囲みが四方を閉ざした。矢石は雨のように昼夜絶えず降り注いだ。
- 宋帝の督戦はいよいよ急となり、城には無傷の女牆もなく、わが軍への外からの援けは来ず、糧道も絶え、国人は大いに恐れた。宋帝はしばしば手詔で帝に降伏を諭したが、使者が至っても城壁を守る者は受け入れなかった。
- 壬申、宋帝は城の西に至って将士を督し、城下に迫って前面に陣を列ね、甲にうずくまって矢を交わした。矢は城上に蝟の毛のように集まった。当時、宋が捕らえた城中の者が「帝は十銭で一本の矢を買い上げ、合わせて百余万本を集めた」と告げた。宋帝は笑って「これは私のために蓄えてくれたのだ」と言った。
- 五月庚辰、宣徽使の范超が叛いて宋に降ったが、宋兵に殺された。壬午、馬軍都指揮使の郭萬超が叛いて城を越え宋に降った。これ以後、親信の臣も多く逃亡し、城中はいよいよ危迫した。
- 宋帝は城の南へ移り、あらためて手詔で帝を諭した。「越王(銭俶)も吳王(李煜)も土地を献じて朝に帰し、あるいは大藩を授けられ、あるいは上将に列した。臣僚の子弟もみな官封を享けている。繼元は速やかに降れば富貴を保てよう」。城上には人の形をした白雲が答えるように現れた。
- 癸未、前樞密使の馬峰が入って謁見し、涙を流して興亡の理を一つ一つ数え上げた。その夜、帝は客省使の李勲を遣わして表を奉り降伏を請うた。宋帝は勲に襲衣・金帯・銀器・錦綵・銀の鞍と轡付きの馬を賜わり、通事舎人の薛文寶に詔を持たせて答えさせた。
- 夜がまだ明けきらぬうちに宋帝は城の北に至り、楽を奏させて城の台上で従臣と宴した。
- 甲午の未明、帝は官属を率い、白い衣に紗の帽で台の下に罪を待った。宋帝は許して、襲衣・玉帯・金銀の鞍と轡付きの馬三匹・金器五百両・銀器五千両・錦綵二千段を賜わり、文武の官にもそれぞれ衣・金銀帯・器幣・鞍と轡付きの馬を賜わり、台に上るよう詔した。
- 帝は叩頭して「臣は車駕の親征と聞き、ただちに身を束ねて罪に服したいと思いました。ただ亡命者どもが死を恐れて臣に迫り、降ることができなかったのです」と述べた。宋帝は軍中に逃げ込んでわが国に投じた者数百人を名簿にとり、そのうち有力者を選んで軍法に処し、残りには服と銭帛を賜わって諸将に分属させた。
- 帝に檢校太師・右衛上將軍を授け、彭城郡公に封じた。宰相の李惲らにもそれぞれ官を授けた。皇帝の従兄の繼文と駙馬都尉の盧俊はいずれも遼へ出奔した。
- 宋は帝を行宮に留め、給与や下賜はきわめて厚く、中使の康仁寶に監視させた。帝は官妓百余人を宋に献じ、将校に賜わらせた。
- 宋が得たのは州十・軍一・県四十一、戸数十三万五千二百二十、兵三万であった。劉保勲を知太原府とし、太原を平晉縣と改めた。宋帝は「平晉詩」を作り、従臣に和させた。
- これより先、宋の太宗が晉陽に至ろうとしたとき、侍者に「朕は端午の日に太原城中で酒宴を開くことになろう」と語ったが、帝が降ったのは果たして五月五日であった。
- 太原は前に臺駘澤を臨み、後ろに懸罋山を負い、堅固で抜きがたい。太宗はそこで旧城を毀たせ、尾大の患いを断った。
- また榆次縣を幷州とし、使者を遣わして部を分け太原の民を移して住まわせた。そのうえ太原の家屋に火を放ったため、老幼は城門へ走ったが間に合わず、焼け死ぬ者が甚だ多かった。
- まもなく康仁寶に劉氏の親族百余人を護送させて汴へ赴かせ、通過する所ごとに食を給し、京城に甲第一区を賜わり、時節ごとの賜与も格別に手厚かった。
- 太平興國六年(981年)、太宗は詔して彭城公に開府儀同三司を加えた。雍熈三年(986年)、房州を保康軍とし、帝を節度使とした。淳化年間(990-994年)に薨じ、遺奏で六歳の子の三豬を託した。中書令を贈られ、彭城郡王を追封され、賻贈は格別であった。三豬は守節の名を賜わり、西京作坊副使を授けられた。
- 世祖が乾祐四年に帝を称してから、四主・二十九年で滅んだ。
- 英武帝は風貌が美しく談論をよくし、禅学にかなり通じていた。潜邸のころ、僧の繼顒から紫檀の如意を借り、僧に会うたびに頂帽をかぶり三衣を着け、これを執って談じ、「握君」と名づけた。
- 即位の後は臣下への処し方が最も苛酷で、意に逆らう者があれば必ずその一族を滅ぼした。殺傷された者は、もと宰相の張昭敏以下、数え切れない。
- 窮まってようやく降ったが、宋の太宗はついにこれを全うさせた。かつて近臣に言った。「晉の司馬昭が劉禪の『蜀を思わず』の答えをからかい、『どうして卻正の言のようだ』と言ったのは、不仁の甚だしいものだ。亡国の君はみな暗愚で軟弱ゆえにそこへ至ったのであり、遠識があれば滅亡に至るはずもない。憐れむべきことなのに、なぜ反対にからかい侮るのか。劉繼元は朕が捕らえた者だが、賓客のように待遇してもなおその心を慰めきれぬかと恐れている」。
- 守節はのちに崇儀使となり、右屯衛將軍に改められ、天禧四年(1020年)に特に右武衛將軍に遷り、さらに右驍衛將軍に改められた。
史論
- 論に言う。歐陽脩『五代史』は、孝和帝が天會十三年に没し、英武帝は位を継ぐとただちに廣運と改元した、とするが、いずれも誤りである。
- 定王・劉繼顒の碑文を調べたところ、右諫議大夫の楊夢申の撰であり、その中に「天會十二年は今の皇帝が即位した初年である」とあり、十七年に繼顒が没したとし、末尾に「廣運元年歳次甲戌九月丙午朔」と署している。また李惲の千佛樓の碑銘も「廣運二年歳次乙亥八月庚午朔」と署している。夢申も惲ももと北漢の臣であり、これが最も信ずべきものである。それゆえこれに拠って漢の年次を編んだ。
- 二人の主がいずれも年を越えても改元しなかったことについては、当時すでに漢の隱帝・周の世宗・孟蜀の後主がその例を行っている。北漢だけが特別ということはない。