十国春秋十國春秋卷一百四 北漢一
北漢の建国者、世祖劉旻(初めの名は崇、896–954年)。後漢の高祖劉知遠の同母弟。河東節度使として晉陽にあり、郭威が漢に代わって周を建て子の贇を殺すと、晉陽で自立した。土地は狭く民は貧しく、遼に「姪皇帝」と称して臣従し、その援兵を頼みに周と争い続けた。髙平の戦いで周の世宗に大敗して進取の意を失い、憂憤のうちに没した。
年表(20件)
- 乾祐三年950年郭威が子の贇を嗣に立てると請うたのを喜び、挙兵をやめて兵を収める
- 乾祐三年950年太行を下れと勧めた太原少尹の李驤を斬り、周に他意なきことを示す
- 乾祐三年950年郭威が漢に代わって周を立て、贇が帰されぬと知って初めて自立の意を抱く
- 乾祐四年951年正月、晉陽で即位し、そのまま乾祐の年号を用いて幷・汾など諸州を領する
- 乾祐四年951年同じ日、周が湘隂公に降されていた子の贇を宋州で殺す
- 乾祐四年951年承鈞に周の晉州を攻めさせるが、王晏の伏兵に大敗する
- 乾祐四年951年みずから「姪皇帝」と称して遼に仕え、大漢神武皇帝に冊命されて名を旻と改める
- 乾祐四年951年遼の五万と合して晉州を攻めるが、大雪と王峻の来援に敗れて霍邑まで追撃される
- 乾祐五年952年周の府州を侵して折徳扆に敗れ、岢嵐軍を奪われる
- 乾祐五年952年嵐州の境に寧化軍、その北に雄勇鎭を置いて周軍に備える
- 乾祐六年953年遼の髙模翰が周軍を退けたので、使者を遣わして遼に謝す
- 乾祐六年953年十二月、喬贇が周の府州を侵すが、折徳扆に城下で防がれて敗れる
- 乾寧三年896年唐の乾寧三年に生まれる
- 乾祐七年954年周の太祖の死を機に遼と謀り、みずから三万を率いて南下し潞州に迫る
- 乾祐七年954年髙平で周の世宗の親征軍と戦い、張元徽を失って大敗する
- 乾祐七年954年百余騎で鵰窠嶺の間道を駆け、道に迷いながらようやく晉陽へ帰り着く
- 乾祐七年954年周の符彦卿らの侵攻で憲・嵐・石・沁・忻・代など諸州が相次いで降る
- 乾祐七年954年周の世宗に晉陽を包囲されるが、長雨と忻口の戦況により周軍が撤退する
- 乾祐七年954年髙平の敗戦と包囲に憂憤して病み、国事をすべて皇子の承鈞に委ねる
- 乾祐七年954年十一月、承鈞に監國を命じてまもなく薨去。年六十、廟号は世祖
出自と生い立ち
- 世祖は姓を劉、名を旻といい、後漢の髙祖(劉知遠)の同母弟である。ともに章懿皇后の生んだ子である。
- 初めの名は崇。鬚髯が美しく、目には重瞳があった。若い頃は無頼で酒を好み博打を好み、かつて黥を入れられて兵卒となった。
- 髙祖が晉に仕えて河東節度使であったとき、崇を馬步都指揮使に署した。髙祖が帝位に即くと太原尹に任じ、まもなく北京留守・同中書門下平章事に遷った。
- 隱帝のとき河東節度使に改められ、累進して兼中書令を加えられた。
乾祐三年(950年)
- 隱帝は年少で政は大臣にあった。郭威は樞密使として大功があったが、かねて崇とは反りが合わなかった。崇は属吏の鄭珙と謀り、上供の租税を停止し、民を兵籍に編入して自らを固めた。
- 隱帝が弑された。崇はすでに挙兵を謀っていたが、樞密使の郭威の謀反の実態が明らかになりながら、隱帝の諸大臣がただちに威を推戴しなかったため、威は即位をためらい、偽って崇の子の贇を嗣として立てるよう請うた。
- 当時、人はみな威の本心ではないと知っていたが、崇ひとりは内心喜び「わが子が帝となる。ほかに何を求めよう」と言って兵を収めた。
- 威は若い頃身分が卑しく、頸に飛雀の黥を入れられていたため、世に「郭雀兒」と呼ばれた。ここで崇の使者に会うと、贇を立てる意図を細かに述べ、自分の頸を指して「古来、青い彫り物をした天子などありましょうか。どうか公は私を疑われるな」と言った。崇はますます喜び、真に受けた。
- 太原少尹の李驤は、兵を率いて太行を下り孟津を押さえて変を待つよう勧めた。崇は「父子の間を離間する」と罵って引き出させて斬り、その妻も殺した。そのうえで事の次第を太后に報告し、他意のないことを明らかにした。
- ほどなく威は果たして漢に代わった。これが周の太祖である。贇は湘隂公に降封された。
- 崇は牙將の李𧦬を遣わして周に書を奉り、贇を太原へ帰すよう求めた。周主は「湘隂公は先ごろまで宋州にいたが、今まさに京師へ引き取り、必ずしかるべき地位を得させる。公は憂うな。ただ力を合わせて輔けてくれるなら、王爵を加えて永く河東に鎮せしめよう」と返答した。崇は贇が帰されぬと知り、初めて自立の意を抱いた。
乾祐四年(951年)
- 春正月戊寅、帝は晉陽で即位し、そのまま乾祐の年号を用いた。領有したのは幷・汾・忻・代・嵐・憲・隆・沁・遼・麟・石の諸州の地である。
- 節度判官の鄭珙を中書侍郎、觀察判官の趙華を戸部侍郎とし、ともに同平章事とした。次子の承鈞を侍衛親軍都指揮使・太原尹、節度副使の李存瓌を代州防禦使、裨將の張元徽を馬步軍都指揮使、陳光裕を宣徽使とした。
- この日、周は湘隂公・贇を宋州で殺した。
- 帝は土地が狭く民が貧しいため、祖先の祭祀もほぼ庶人の家の礼にならい、宗廟を建てなかった。月俸は宰相が百緡、節度使が三十緡、その他はわずかな支給にとどまった。
- このころ遼の将の潘耀尼が君命と称して皇子の承鈞に書を送った。帝は承鈞に返書させ、本朝が滅んだので帝位を継いだこと、晉室の先例にならって北朝の援けを求めたいことを述べた。遼はこれを許した。
- 丙戌、兵を発して隂地・黄澤・團柏に駐屯させた。丁亥、承鈞を招討使とし、副招討使の白從暉、都監の李存瓌とともに兵一万を率いて周の晉州を侵した。
- 帝は湘隂公の死を聞いて激しく慟哭した。李驤のために嗣を立て、時節ごとに祭った。
- 二月戊戌、わが兵は五道から晉州を攻めた。周の節度使の王晏は城を閉じて出ず、承鈞は将士に蟻のように城壁を登らせたが、晏の伏兵が奮撃して味方は大敗した。副兵馬使の安元寶が周に降った。
- 癸卯、軍を移して隰州を攻めた。周の隰州刺史の許遷は步軍都指揮使の孫繼業を遣わして長壽村で迎撃させ、わが牙將の程筠を捕らえて殺した。まもなくわが兵は州城に迫ったが、数日攻めて落とせず引き返した。
- 丁巳、通事舎人の李𧦬を遼に遣わし、援兵を乞うた。
- 三月甲戌、𧦬が遼に到着した。遼主の烏雲は帝と父子の国たることを約し、伊喇摩哩を派遣して返礼の使いとした。
- 己卯、周は敗残兵二百六十余人を太原へ返し、それぞれに衫・袴・巾・履を賜わった。
- 夏四月、遼が使者を遣わして、周の使者の田敏が歳ごとに銭十万緡を輸すると約したことを告げた。帝は宰相の鄭珙に手厚い贈物を持たせて遼に謝し、みずから「姪皇帝」と称して「叔天授皇帝」に書を送った。
- 五月辛未、珙が遼で没した。甲戌、定難節度使の李彛殷がわが国に藩を称した。
- 六月、遼主は燕王の蘇頁と政事令の髙勲を遣わし、帝を大漢神武皇帝、妃を皇后に冊命した。また黄騮の馬・九龍十二稻の玉帯を返礼として贈った。帝は名を旻と改めた。
- 秋七月、翰林學士の衛融らが遼に赴き冊礼を謝し、あわせて出兵を請うた。
- 九月、招討使の李存瓌が團柏から周を撃った。遼は兵を率いて合流しようとし、九十九泉で諸将と協議したが、諸将はみな南行を望まなかった。遼主は強行した。
- 癸亥、新州の西の火神淀に至ったとき、燕王の蘇頁および偉王の子の太寧主・烏遜が乱を起こし、君主の烏雲を殺した。丁卯、齊王の蘇頁が代わって立ち、尊号を天順皇帝とし、應厯と改元した。火神淀から幽州に入り、劉承訓を遣わして哀を告げた。
- 帝は樞密直學士の王得中を遼に遣わして即位を賀し、あらためて叔父として仕え、晉州を撃つための兵を請うた。ついで使者を遣わして弔礼を行わせた。
- 冬十月辛卯、周の潞州巡檢使の陳思讓がわが兵を虒亭で破った。
- 甲辰、遼が彰國節度使の蕭禹厥に兵五万を率いさせて来会し、帝は兵二万を率いて隂地關を出て晉州を攻めた。
- 丁未、城の北に軍を置き、三面に寨を構えた。周の巡檢使の王萬敢、龍㨗都指揮使の史彦超、虎捷指揮使の何徽がともに防いだ。
- 十二月乙巳、王峻が兵を率いて晉州を救援した。晉州の南の蒙阬は最も険要の地で、峻はわが兵がここを押さえるのを憂えていたが、この日、前鋒がすでに蒙阬を越えたと聞き「わが事は成った」と喜んだ。
- 帝は晉州を久しく攻めて落とせず、そこへ大雪となって軍は食糧を欠き、契丹の兵は帰りたがった。峻の到来を聞いて営を焼き夜陰に紛れて退いた。
- 峻は晉州に入り、行營都指揮使の仇𢎞超らに兵を率いて霍邑まで追わせ、奮撃させた。わが兵は大敗し、崖や谷に墜ちて死ぬ者は数知れなかった。
- 周の将の藥元福は「劉旻は全軍を挙げ契丹を従えて来たり、晉・絳を呑む志であった。今や気は衰え力は尽き、狼狽して逃げている。この機に討ち取らねば必ず後患となる」と述べたが、王峻は使者を送って止めさせ、追撃は解かれた。
- 契丹の兵が晉陽に至ったとき、士馬は十のうち三、四を失っていた。禹厥は功のないのを恥じ、大将一人を市に釘づけにし、十日後に斬った。帝はこれ以後、進取の意を失った。
- このころ、内には軍国の費を供し、外には契丹に奉り、賦役は繁く重く、民は生きるすべもなく、周の領内へ逃げ込む者が甚だ多かった。
乾祐五年(952年)
- 春正月、兵を遣わして周の府州を侵したが、防禦使の折徳扆に敗れた(二千余人が殺された)。
- 二月庚子、徳扆が侵入して岢嵐軍を陥れ、兵を置いて守らせた。
- この月、帝は寧化軍を嵐州の境に置き、またその北に雄勇鎭を置いた。周軍に備えるためである。
- 夏四月丙戌朔、日食があった。
- 六月壬寅、帝は周人が辺境を侵したため、遼に使者を遣わして援けを求めた。遼主は中臺省右相の髙模翰に赴かせた。
- 冬十月甲申朔、遼に使者を遣わして葡萄酒を進めた。
- 十二月癸未、髙模翰とわが兵が晉州を包囲した。
- この年、麟州刺史の楊崇訓が周に帰服した。もと崇訓の父の信が周から命を受けて刺史となり、信の死後に崇訓は州を挙げてわが国に降っていたが、ここに至って羌の諸族に囲まれて叛き去った(のちに再びわが国に帰した)。
乾祐六年(953年)
- 春閏正月壬午、使者を遣わして遼に謝した。髙模翰が周軍を退けたためである。
- 三月庚辰朔、南唐が遼に使者を遣わして貢いだ折、あわせてわが国にも書を託した。遼主は詔してその貢を通じさせた。
- 丁酉、使者を遣わして遼に毬衣と馬を進めた。
- 夏五月壬寅、使者を遣わして遼に、石晉が建てた嗣聖皇帝聖徳神功碑が周人に毀たれたことを述べ、再刻を請うた。遼はこれを許した。
- 秋八月、使者を遣わして遼に援けを乞うた。九月庚子、遼に薬を貢いだ。
- 十一月、遼が貞烈皇太后を祖陵に葬った。帝は使者を遣わして会葬させた。
- 冬十二月、喬贇が周の府州を侵したが、折徳扆が城下で防ぎ、わが軍は敗れた。
乾祐七年(954年)
- 春正月、周主が滋徳殿で崩じた。丙申、晉王の榮が皇帝の位に即いた。帝は周主の死を聞き、遼に使者を遣わして大挙して周を伐つことを謀った。
- 二月、遼は武定節度使・政事令の楊衮に鉄騎一万および奚の諸部の兵五、六万、号して十万を率いさせ、晉陽で合流させた。
- 帝はみずから兵三万を率い、義成節度使の白從暉を行軍都部署、武寧節度使の張元徽を前鋒都指揮使とし、契丹の兵とともに團柏から南下した。
- 丁巳、わが兵は梁侯驛に駐屯した。昭義節度使の李筠が牙將を遣わして太平驛で迎え撃たせたが、張元徽はその将の穆令均を斬り、筠は上黨へ逃げ帰った。
- 三月、わが兵は勝ちに乗じて潞州に迫り、そのまま南進した。
- このとき周主は即位したばかりで、「わが国は周の大喪に乗じ、周は出兵できまいと侮っている。みずから将となって不意を撃つべきだ」と考えた。周の臣の多くは、山陵の日も近く人心が動揺しやすいから軽々しく動くべきでないと諫めたが、周主は「わが兵力の強さをもってすれば、旻を破るのは泰山で卵を圧するようなものだ」と言った。こうして意を決して親征した。
- 癸巳、前鋒がわが兵と髙平の南の髙原で遭遇した。わが兵はやや退き、周主は諸軍に急進を促した。
- 帝は中軍を巴公原に布陣させ、張元徽を東翼、楊衮の軍を西翼に置いた。周軍もまた三陣に列し、李重進・白重賛が左、樊愛能・何徽が右、向訓・史彦超が中央に、張永徳が禁兵で周主を護衛した。周主は甲を着けた馬に乗り、みずから戦を督した。
- 衮は周軍を望み見て帝に「手強い敵です。軽々しく動くべきではありません」と言った。帝は鬚を逆立てて「時機は逃せぬ。公は口を出されるな」と言い、衮は怒って去った。
- そのとき東北の風が盛んであったが、にわかに南風に転じた。副樞密使の王延嗣が司天監の李義に命じて帝に「今が戦うべき時です」と告げさせ、帝はこれに従い、東翼から先に進むよう号令した。
- 王得中は馬に取りついて諫めた。「李義は斬るべきです。南風が急なのは北軍に利がありません。しばらくお待ちください」。帝は怒り、ただちに元徽に戦を指図した。
- 元徽が周の右軍を撃ち、兵が交わるや、周将の樊愛能・何徽は騎兵を率いて真っ先に逃げ、右軍は崩れた。歩卒数千人が甲を棄てて降ってきた。元徽が万歳を唱えると声は川と谷に響き、敵兵は大いに驚いた。
- そこへ周主が突然激怒して馬を躍らせ陣に入り、五千人を率いて帝の牙帳へ直進した。帝はちょうど楽を奏でさせ酒を飲んで悠然たるさまを示していたが、不意を突かれて狼狽し態勢を失した。
- 周主はみずから矢石を冒して戦士を督し、士卒は一人で百人に当たる勢いで先を争った。周将の趙匡𦙍・馬仁瑀・馬全乂および永徳らが鋒を摧き陣を陥れ、その勢いは止めようがなかった。
- 帝は元徽に進撃を促したが、馬がつまずき、元徽は周兵に殺された。わが軍はこれによって気を奪われた。帝はみずから赤旗を振って軍を収めようとしたが、軍はにわかに退いて止まらず、互いに踏みつけ合って大敗した。
- 日暮れ、帝は残兵一万を収めて谷川を隔てて守った。このとき劉詞の率いる周の後軍はまだ到着していなかったが、戦の勝敗が決した後に到着し、勝ちに乗じてわが兵を撃った。王延嗣は戦死し、帝はまたも大敗した。輜重・武具・乗輿・服御の品はすべて周人に奪われた。
- 丁酉、周主は潞州に至った。帝は髙平から粗末な褐衣に笠をかぶり、契丹から贈られた黄騮に乗って百余騎とともに鵰窠嶺の間道を駆け去った。夜、山谷で道に迷い、村民を道案内としたが誤って平陽へ向かい、百余里行って気づくと案内人を殺した。
- 昼夜兼行し、行く先々で食を得ても箸を取らぬうちに周兵が来ると伝えられ、そのつど慌てて逃げた。帝は老衰して力尽き、馬上に伏して駆けるのがやっとであり、ようやく別の道をたどって帰り着いた。
- この戦役では、衮が怒りを抱いて西翼に兵を留めて戦わなかったため、ひとりその軍だけが無傷で戻った。
- 帝は帰国後、黄騮のために厩を造って金銀で飾り、三品の官に準ずる飼料を与え、「自在將軍」と名づけた。
- 庚子、帝は散った兵を集め、甲兵を修め、城と濠を固めて周に備えた。楊衮はその衆を率いて北の代州に屯した。帝は王得中に衮を送らせ、あわせて遼に救援を求めた。遼主は得中を返して、兵を発して晉陽を救うと約した。
- 壬寅、周は符彦卿を河東行營都部署、郭崇をその副、向訓を都監、李重進を馬步都虞候、史彦超を先鋒將とし、步騎二万を潞州から発して侵入させた。また王彦超・韓通に隂地關から入って彦卿と合流させ、劉詞を隨駕都部署、白重賛をその副とした。
- この月、昭聖皇太后の李氏が汴京の西宮で薨じた。
- 夏四月、盂縣が周に降った。乙卯、汾州防禦使の董希顔が叛いて周に降った。丙辰、遼州刺史の張漢超が叛いて周に降った。
- 周主は初め符彦卿らを侵入させたとき、ただ晉陽城下で兵威を示すつもりであった。しかし周軍が国境に入ると、百姓が争って「わが国は賦役が重すぎる。軍需を供して太原攻めを助けたい」と言ったため、周主は初めて併呑の意を抱いた。ところが周の諸軍数十万が略奪をやめないため、百姓は失望し、かえって山谷に立て籠もった。
- 辛酉、憲州刺史の韓光愿と嵐州刺史の郭言が城を挙げて彦卿に降った。壬戌、周の王彦超らが石州を陥れ、わが刺史の安彦進を捕らえた。癸亥、沁州刺史の李廷誨が周に降った。
- 庚午、周主は潞州を発して太原へ向かった。癸酉、忻州監軍の李勍が叛いてわが刺史の趙臯および遼の通事の揚訥呼を殺し、城を挙げて周に降った。周は勍を忻州刺史とした。
- 五月乙亥、遼が南院大王の塔喇を遣わして救援に来た。丙子、周主が太原に至り、旗幟は城を巡って四十里に及んだ。
- この日、代州防禦使の鄭處謙が城を挙げて周に降った。これより先、楊衮は處謙に二心があると疑い、騎兵に城門を守らせたが、處謙はこれを殺して門を閉ざし衮を拒んだ。衮は遼へ逃げ帰り、遼主は功がないとして囚えた。處謙はこうして叛いたのである。
- 丁丑、周は靜塞軍を代州に置き、處謙を節度使とした。契丹は数千騎を忻州・代州の間に屯してわが援兵となった。庚辰、周主は符彦卿を遣わして撃たせ、彦卿は忻州に入り、契丹は退いて忻口を保った。
- 丁亥、周は寧化軍を汾州に置き、石・沁二州を隷属させた。丁酉、撻烈が彦卿を忻口で破った。
- 周の代州の将の桑珪らは鄭處謙が遼に通じたと誣告して殺した。当時、王得中が遼から戻って代州に留まっていたが、珪はあわせて捕らえ周軍に送った。周将の史彦超は契丹と戦って死んだ。
- 周主が晉陽を攻めに来たとき、彦卿と彦超は北の忻口を押さえて契丹の援軍の道を断っていた。晉陽の城は四方四十里あり、周軍は城を去ること三百歩で完全に包囲し、あらゆる手立てで攻めたが落とせなかった。彦卿はしばしば契丹に挫かれ、ここに至って彦超も身を殉じた。
- 周主はそこで懷・孟・蒲・陜の丁夫数万を徴発して急ぎ晉陽を攻めたが、長雨が続いて士卒はみな疲れ病み、そこで撤退が議された。
- 甲辰、周はわが樞密直學士の王得中を殺した。乙巳、周主は軍を返して太原を発した。
- 周の匡國節度使の藥元福は周主に「進軍は易く、退軍は難しゅうございます」と述べた。周主は「一切を卿に委ねる」と言った。帝が兵を出して追撃すると、元福は兵を整列させて殿軍を務め、わが軍は敗れた。
- 周は得た州県をすべて棄てたが、ただ桑珪だけは代州に拠って降らなかった(珪はすでにわが国に叛き、また周にも帰れなくなったため、城に籠もって自守した)。帝は兵を遣わしてこれを攻め落とした。
- この戦役で、周主は帝と髙平で対峙するにあたり、あらかじめ前澤州刺史の李彦崇に兵を率いて江豬嶺を守らせ、帝の帰路を断たせていた。しかし彦崇は樊愛能らが南へ逃げたと聞いて兵を引いて退いたため、帝は果たしてその道を通って太原へ逃げた。周主は彦崇を率府副率に貶した。また樊愛能・何徽らを指して「お前たちは幾代にもわたる宿将で、戦えぬわけではない。ただ朕を珍品として劉旻に売りつけようとしたのだ」と責め、ことごとく斬って晒した。
- 壬申、帝は髙平の敗戦、続く包囲によって憂憤し病を得た。国事はすべて皇子で侍衛都指揮使の承鈞に委ねた。
- 六月癸亥、塔喇が獲得した軍需品を遼に献じた。
- 秋七月乙酉、わが国の民で契丹に誤って掠奪された者があり、使者を遣わして遼に請うと、遼主は詔してことごとく返させた。
- 九月丙申、周人が辺境を侵していることを遼に告げた。
- 冬十一月、遼の彰國節度使の蕭迪里と太保の許從贇が忻州・代州二州の戦勝を遼に奏した。
- この月、帝の病が重くなり、皇子の承鈞に監國を命じ、まもなく薨じた。
- 帝は唐の乾寧三年(896年)に生まれ、乙卯の年に六十歳で没した。廟号は世祖、在位は通算四年であった。
史論
- 論に言う。世に、世祖はかつて周に書を送って子の贇を立てるよう求め、それがかなわなかった後に初めて帝を称した、と言う。その志を推せば、君主を失ったことを仇とせず、子を殺されたことを仇としたことになる。
- しかし要するに、贇が立てば漢の祭祀は絶たれずにすんだのであり、贇は単に世祖の子であるにとどまらなかった。劉氏の祀りが絶えることを恐れて一隅を保ち存続を図ったその志には、まことに悲しむべきものがある。
- 髙平の戦いではかろうじて身一つで免れた。滅んだのは天命というほかない。それでいて四代の君を経て三十年の年を保った。ああ、これはどうして人の力だけによるものであろうか。