十国春秋卷一百三 荆南四 列傳 僧齊已

要約

僧斉己は益陽の生まれで、もとは佃戸胡氏の子であった。七歳のとき大溈山寺で牛を牧しながら竹枝で牛の背に絵を描いて詩を作る神童ぶりを示し、衆僧に勧められて出家した。都官の鄭谷に詩を見せて添削を受け、字句を練り直すたびに嘉賞されて詩友となり、「一字の師」と呼ばれるほどの深い交わりを結んだ。早梅詩の「一枝開く」の名句もその添削によるものである。長沙の道林寺に長く住み、傲慢で知られた徐仲雅すら斉己に会うと悚然として敬意を払ったという。

蜀へ遊学しようとしたところを武信王に名を知られて引き留められ、龍徳元年には龍興寺で礼され僧正に任じられたが、内心は鬱々として楽しまなかった。唐の秦王従栄の異志を風刺する詩「渚宮莫問篇」などを作って危うく罪を得かけたが、まもなく脱して武信王のもとに帰り匿われて難を逃れた。

梁震は晩年とりわけ斉己と親しく詩を贈答し、斉己は江陵で生涯を終え、自ら衡岳沙門と号した。八百首の詩は孫光憲の序を得て『白蓮集』と名づけられ、剣客の指の爪から剣を出す奇譚や、粥を良薬として讃える偈文などの逸話も伝わる。

現代語訳全文

僧齊已

  • 僧斉己は益陽の人で、もとは佃戸胡氏の子である。七歳のとき大溈山寺に居し、諸童子とともに牛を牧し、天性頴悟で常に竹枝で牛の背に絵を描いて詩を作った。詩句は多く人の意表に出て、衆僧はこれを奇として髪を落とし浮図(僧)となるよう勧めた。時に都官の鄭谷は袁州にあって詩をもって名を知られていた。斉己は所持の詩を携えて往き謁したところ、詩に「自封修薬院、別下著僧牀」の句があった。谷はこれを覧て「一字を改めれば方に相見えるであろう」と言った。数日を経て再び過ぎ「すでに改めることができました」と称し、「別掃著僧牀」と言った。谷はこれを嘉賞した。結んで詩友となった。また斉己に早梅詩があり、その中に「昨夜数枝開く」の句があった。谷はこれを点定して「数枝は早いとは言えない、一枝とするに越したことはない」と言った。人は谷を斉己の「一字の師」とした。
  • 久しく長沙の道林寺に居し、湖南幕府で能詩と号する者の徐仲雅・廖匡図・劉昭禹の輩は皆その名声甚だ盛んであったが、仲雅はとりわけ傲忽で、王公であっても遠慮しなかったが、独り斉己を見るときは必ず悚然として衆人と同じようには扱わなかった。斉己はもとより贅疣(あばた)があり、これに至って彼の詩を愛する者はあるいは戯れにこれを「詩嚢」と呼んだ。まもなく蜀へ遊びに行こうとしたが、武信王が斉己の名を知ってこれを遮り留めた。龍徳元年、斉己を龍興寺で礼し、僧正に署し、時に手牘を降してこれを慰藉すること良く厚かった。しかし居常鬱鬱として楽しまなかった。僧虚中が詩を贈って「老いて峨嵋の月を負い、閒に雲水を看る心」と言ったのは、けだしその志を傷んだものである。斉己はすでに江陵に身を寄せ、ただ筆墨を事として自ら娯しみ、そこで「渚宮莫問篇」十五章を作って懐いを述べた。
  • しばらくして、唐の秦王従栄は召して侍中の秋の大宴に入れたが、斉己は従栄が異志を蔵しているのを窺い、「東林碍(さまた)げること莫く漸く高く勢い四海、正に当路に看る時」の句を作り、ほとんど諷刺によって罪を得るところであったが、まもなく脱して荆南に帰り、武信王に頼ってこれを匿い、免れることができた。その節を屈しなかったことは侯王に対してもこの類であった。
  • 梁震は晩年、酷(はなは)だ吟詠を好み、とりわけ斉己と善く互いに酬答した。斉己はついに江陵で終え、自ら衡岳沙門と号した。詩八百首があり、孫光憲がこれに序して『白蓮集』と命名した。斉己はかつて溈山の林下で一僧に遇い、その指の爪の下から二剣を出して空を凌いで躍り去るのを見た。けだし剣俠であった。時々これを人のために語った。また僧仰山とともに豫章の観音院に住み、粥疏を作って「粥は良薬と名づけ仏の讃揚するところ、義は三檀を冠り功は十利を標す、さらに英哲の各々願心を遂げることを祈り、既に清晨に備われば永く白業を資く」と言った。禅流はその辞を称え、当に食時五観と並び伝わるべきだとした。