十国春秋卷一百三 荆南四 列傳 梁延嗣

梁延嗣

  • 梁延嗣は京兆長安の人である。唐の同光中、兵を将いて復州監利を守った。武信王が唐に朝したとき、荘宗は密かにこれを図ろうとし、王が疾く帰るや、そのまま兵をもって監利・星沙の二県を攻めた。延嗣は兵敗れ王に獲られたが、文献王が立つに及んで大校に擢せられ、承制して帰州刺史を授けられ、まもなく復州団練使を領し、なお親軍を掌った。貞懿王及び保朂に歴事した。保朂は病が革(あらた)まると延嗣を召してこれに「我が病はもう起き上がることができない。兄弟の中で誰が後事を寄せられるか」と語った。延嗣は「公は貞懿王のことを念わないのですか。先王は寝疾するとき軍府を公にお付けになりました。今、先王の子で繼冲がすでに成長しています」と言った。保朂は「その言は正しい」と言い、そのまま繼冲に内外の兵馬を判せしめた。繼冲が立つことができたのは、延嗣の功が多くを占めている。
  • 繼冲が納土するに及び、延嗣は孫光憲とともに実にこれを勧めた。宋は帰順の功をもって復州防禦使・充湖南前軍歩軍都指揮使兼排陳使を授けた。後に郊礼によって復州より入朝すると、太祖はこれを慰撫して「高氏に富貴を失わせなかったのは、爾の力である」と言った。濠州防禦使に改められ善政があり、詔書をもって褒美された。
  • 延嗣は頗る書を知り、士に接することを好んだ。常に暴病にかかり城隍神に禳(はら)ったところ、その夕に神人が九九の数を告げる夢を見、まもなく病は癒えた。享年八十一で卒した。延嗣は行伍から身を起こしたが、居常、健児・士卒という語を避けていた。ある日、孫光憲とともに毬場に赴いたとき、光憲が馬に上るのに左右で助ける者が頗る多かった。延嗣は後ろで戯れて「誰が大卿は年老いてますます壮んだと言おうか。良く扶持の力によるものだろう」と言うと、光憲は振り返って「衆に扶けられているのではない、老いてなお健やかなのだ」と言い、延嗣は怒りに堪えず、論者はこれを少しく非とした。

史論

  • 論じて言う。江陵が失われたとき、景威は喉を絶って殉じた、忠と言うべきである。延嗣は納款を力めて勧め、高氏をして終始富貴を保たせた、それはほとんど譙周の流であろうか。しかしながら延嗣にとっては易しく、景威にとっては難しかったのであり、事はもとより成敗をもって論じるべきではない。景威こそ真に濁世の佼佼たる者であろう。