李景威
- 李景威は荆州長陽の人である。文献王の時にはまだ名を知られなかったが、貞懿王に仕えるに及んで水手都指揮使に擢せられた。繼冲が保朂に代わって節鎮を継ぐと、景威はその時帳下の親校であった。折しも湖南の張文表の乱に周保権が宋に救いを求めたので、宋は慕容延釗らに命じて討伐に赴かせ、また江陵に詔して水軍を発し潭州に赴かせた。繼冲は景威に兵三千人を将いさせて備えさせた。まもなく宋師は荆南に道を仮り、兵は城外を過ぎるだけだと声言してきたが、景威は「兵は権謀を尚ぶものです。城外の約など信じられましょうか。臣が観るところ、まさに釁(すき)に乗じて我を伐とうとしているだけです。今、精卒数万を訓練すること甚だ整っていますので、厳しく兵を整え旅を備えてこれに禦(ふせ)ぐに越したことはありません。臣は不才ながらことごとくお任せいただきたく存じます」と言った。少監孫光憲は固くこれを不可とした。景威は退出して嘆じ「吾が言は用いられなかった、大事は去ってしまった、生きて何になろうか」と言い、そのまま喉を扼して死んだ。宋の太祖はこれを聞いて「忠臣である」と言い、王仁贍に命じてその家を厚く恤(めぐ)ませた。
- これより先、景威は繼冲に「旧く伝わることには、江陵の諸処に九十九の洲があり、満百になれば王者が興る、というものがあります。武信王の初め、江心の深い浪の中に忽ちに一洲が生じましたが、今この洲がにわかに漂没してしまいました、これは憂うべきことかもしれません」と語ったが、繼冲は殊にこれを意に介さず、ついに国を亡ぼすに至った。