十国春秋十國春秋卷一百三 荆南四

李載仁――迂遠な唐室の遠裔

  • 李載仁は唐の皇室の遠い末裔である。開平初年(907年)、乱を避けて江陵に来た。武信王は觀察推官に任じた。
  • 才学を自負し、王からも高く評価されて丁重に遇されたが、性格が迂遠で悠長なため、衆の心には必ずしも適わなかった。文獻王のときようやく郎中に遷った。
  • ある日、王の召しに応じて馬に乗ろうとしたところ、部下の兵が殴り合いを始めた。載仁は怒り、厨から飯と豚肉を取り寄せて殴った者に向かい合わせて食わせ、「今度またやったら豚肉に酥を加えてやるぞ」と戒めた。聞いた者はみな笑った。
  • また妻の閻氏とは部屋を別にして住んでいた。ある日、閻氏が突然戸を叩いて訪ねてくると、載仁は急いで暦本の百忌を取って調べ、大いに驚いて「今夜は河魁が房宿にある。どうして同衾できようか」と言った。その挙措はこの類のものが多かった。
  • 孫光憲が掌書記となると、牋奏や書檄はみな載仁より上の出来であり、載仁は位を占めるだけとなった。これによって光憲との間に隔たりが生じたが、光憲のほうが次第に人を避けたので、世人は光憲を長者と評した。

倪從進

  • 倪從進は武信王の娘婿である。父の可福は武信王の大将であった。從進は蔭により官を得、さらに王の娘を娶って格別に寵遇され、当時の人はみなこれを羨んだ。
  • 功臣の子で王家と婚姻を結んだと分かるのは、王保義の子の恵範と、可福の子の從進の二人である。

王貞範――春秋の学と琵琶の曲譜

  • 王貞範は平江節度使の王保義の子。文獻王に仕えて推官となり、累進して少監に至った。
  • 春秋の学に精しく、杜預の『左傳註』を数百条にわたって駁正した。人はこれを訝ったが、ひとり同僚の孫光憲だけは春秋の解釈が合い、二人は互いに意気投合した。
  • 妹はいわゆる荆南仙女で、常に夢の中で異人から琵琶の楽曲二百余調を授かった。異人は「この曲譜は兄君に序を作らせ、甲寅の方角に石に刻むように」と命じた。そこで貞範は妹の指示どおり序を作り、刻ませた。
  • 伝わる曲には、道調・玉宸宫・夷則宫・神林宫・㽔賔宫・無射宫・𤣥鍾宫・黄鍾宫・散水宫・仲吕宫、啇調・獨指・泛清商・紅銷商・風商・林鍾商・醉吟商・玉仙商・高雙、調商角・調醉唫角・大吕角・南宫角・中吕角・㽔賔角、羽調・鳯吟羽・風香羽・應聖羽・玉宸羽・香調・大吕調がある。
  • 曲名には人の世にも同じものがあり、凉州・渭州・甘州・緣腰・莫靻・傾盆樂・安公子・水牯子・阿泛濫の類がそれである。摹本が流布し、当時の人はみな不思議なこととして驚いた。

王惠範と弟の延範

  • 王惠範も保義の子。身なりを整えるのを好み、読書を好んだ。門蔭によって文學となり、觀察推官に遷った。
  • 文獻王は娘を嫁がせ、また惠範がもともと武将の家の子であることから、幕府内外の軍政をつかさどらせた。
  • しかし惠範は豪放で束縛を嫌い、帳簿や公文書の仕事を俗事として、王に申し出て辞退した。以来、王は自分を理解していないとして、軍府の大事にはいっさい関与せず、ただ金帛で古書や図画を買い集めて日々鑑賞するのを志とした。
  • 弟の延範は容貌が偉大で、任侠を好み、家は富み、施しを惜しまなかった。文獻王は太子舍人に任じた。のちに繼冲に従って宋に入り、大理丞・知泰州となり、太平興國年間(976-984年)に廣南轉運使となった。

康張

  • 康張は文獻王に仕えて硤州長陽令となり、良吏の才があって一県はよく治まった。少監の孫光憲としばしば往来していたという。

魏璘

  • 魏璘は家系が分からない。貞懿王に仕えて指揮使となり、勇と謀略は群を抜いていた。
  • 顯徳年間、周の世宗が南征し王に出兵を求めた。王は璘に兵三千を率いて夏口へ赴き周軍と合流させた。
  • 二年後、周と唐(南唐)が戦を交えると、璘はさらに戦艦五百艘を率いて鄂州に駐屯し、戦を助けた。周主は貞懿王の功を賞し、手厚い詔で荆南を慰撫した。
  • 荆南では倪可福・鮑唐の後、璘が名将と称された。同じ頃、客將の陸扶も驍勇果敢で、璘に次ぐ者とされた。

王昭濟

  • 王昭濟はもと客將。宋軍が江陵に入ると、繼冲は昭濟と蕭仁楷に表を奉じて領土を献上させた。
  • 宋の太祖はその功を賞し、昭濟を左領軍衛將軍に署した。仁楷も供奉官に任じられたが、その後の消息は分からない。

王崇範

  • 王崇範は繼冲に仕えて支使となった。領土献上の後、崇範を朝廷に遣わし、金器五百両・銀器五千両・錦綺二百段・龍腦香十斤・錦繡の帷幕二百事を貢進させた。
  • 宋の太祖は崇範を節度判官に抜擢し、その職のまま没した。

李景威――抗戦を説いて容れられず自死

  • 李景威は荆州長陽の人。文獻王のときはまだ無名で、貞懿王に仕えて水手都指揮使に抜擢された。
  • 繼冲が保朂に代わって節鎮を継ぐと、景威は帳下の親校となった。
  • 湖南で張文表の乱が起こり、周保權が宋に救援を求めた。宋は慕容延釗らに討伐を命じ、あわせて江陵にも水軍を潭州へ派遣するよう詔した。繼冲は景威に兵三千を率いて待機させた。
  • まもなく宋軍が荆南を通過することとなり、兵は城外を通ると称した。景威は言った。「兵は権謀を尊ぶもの。城外を通るという約束など信じられましょうか。臣の見るところ、隙に乗じて我らを討つ気です。今わが精兵は数万、訓練も行き届いております。兵を厳しくし軍を整えて防ぐに越したことはありません。臣は不才ながら、その任をすべてお引き受けしたい」。
  • しかし少監の孫光憲が断固として不可とした。景威は退出して嘆いた。「わが言は用いられず、大事は去った。生きていて何になろう」。そして自ら喉を扼して死んだ。
  • 宋の太祖はこれを聞いて「忠臣である」と言い、王仁贍に命じてその家を手厚く恤ませた。
  • これより先、景威は繼冲に語っていた。「古くから江陵一帯には九十九の洲があり、百に満ちれば王者が興ると伝えられます。武信王の初め、江心の深い流れの中に突然一つの洲が生じました。今その洲がにわかに流れ消えました。憂うべきことです」。繼冲はまるで意に介さず、ついに亡国に至った。

梁延嗣――帰順を勧めた重臣

  • 梁延嗣は京兆長安の人。唐の同光年間(923-926年)、兵を率いて復州監利を守った。
  • 武信王が唐に朝したとき、莊宗は密かにこれを図ろうとした。王は急ぎ帰国すると、兵を出して監利・星沙の二県を攻めた。延嗣は敗れて王に捕らえられた。
  • 文獻王が立つと大校に抜擢され、承制によって歸州刺史を授けられ、さらに復州團練使を領し、親軍を掌握した。貞懿王および保朂の代にも仕えた。
  • 保朂の病が重くなったとき、延嗣を召して「私の病は治るまい。兄弟のうち誰に後事を託せばよいか」と尋ねた。延嗣は「公は貞懿王のことをお考えになりませんか。先王は病に臥して軍府を公にお委ねになりました。今その先王の子の繼冲は成人しております」と答えた。保朂は「その言のとおりだ」と言い、繼冲に内外の兵馬を判じさせた。繼冲が立てたのは延嗣の功が大きい。
  • 繼冲が領土を献じたときも、延嗣は孫光憲とともにこれを勧めた。宋は帰順の功により復州防禦使・湖南前軍步軍都指揮使兼排陳使を授けた。
  • のちに郊祀の礼にあたって復州から入朝したさい、太祖は「高氏が富貴を失わずにすんだのはお前の力だ」と慰撫した。濠州防禦使に改められ、善政があって詔書で褒められた。
  • 延嗣はかなり書を読み、士との交わりを好んだ。あるとき急病にかかり城隍神に祈ったところ、その夜、神人が現れて九九の数を告げる夢を見た。まもなく病は癒え、八十一歳で没した。
  • 延嗣は行伍から身を起こしたため、日頃「健兒」だの「士卒」だのという語を忌み嫌った。ある日、孫光憲とともに毬場へ赴いたとき、光憲が馬に乗るのに左右から支える者が多かった。後ろにいた延嗣がふざけて「誰が大卿は年老いてますます壮健だと言ったのか。実は介添えの力ではないか」と言うと、光憲は振り返って「介添えのおかげではない、老いてなお健やかなのだ」と返した。延嗣は怒りを抑えきれず、論者はこれを軽んじた。

史論

  • 論に言う。江陵が失われたとき、景威は喉を扼して殉じた。忠と言うべきである。延嗣は帰順を強く勧め、高氏に富貴を全うさせた。これは譙周の類であろうか。しかし延嗣の道は易く、景威の道は難い。それゆえ成敗をもって論ずべきではない。景威こそ濁世に立つ真の傑物である。

温克修――術者の予言

  • 温克修はもと江陵の司藥庫の吏である。唐の天復年間(901-904年)、術者の向隠と交わった。
  • 隠は「江陵はこれから変転して定まった主がない。五年後、東北の方から国の親戚らしき人が来てこの地に鎮すること二十年」と告げた。またのちに「東北から来る者の二十年後、さらに一人が現れる。五行では計り知れず、その道のりはさらに遠い」と言った。
  • 武信王が荆南留後となったが、それ以前に朱の姓を賜わっており、その後もとの姓に復した。まさに「国の親戚」という言に符合した。
  • 天成二年(927年)、唐軍が江陵を囲んだとき、文獻王は王子として城を守っていた。克修は隠の言を告げたが、文獻王は信じなかった。
  • 翌年、武信王が薨じた。荆南留後就任から通算二十一年で文獻王が位を襲い、人々はその予言が的中したとした。

王處士――柴榮の卜占

  • 王處士は出身が分からない。文獻王のとき江陵に住み、卜占の名手として知られた。
  • 周の晉王・柴榮がまだ身分の低かった頃、布衣の身で大商人の頡跌氏とともに荆南で商いをしていた。
  • ある日、處士を訪ねて占わせたところ、卦を布いているうちに一本の筮竹が跳ね出て、まっすぐ立った。處士は大いに驚いて言った。「わが家の筮法は十数代に及ぶが、高祖・曾祖の遺言に、筮竹が自ら跳ね出た者はその貴きこと言うべからず、とある。まして倒れずに立っている。天下の主となる相ではないか」。そして立ち上がって再拝した。
  • 榮は表向きは咎めるふりをしたが、内心大いに喜んだ。のちに果たして郭氏の後を承けて皇帝の位に即き、處士の言のとおりとなった。

僧齊已――詩僧としての名声

  • 僧の齊已は益陽の人。もとは胡氏の小作人の子である。
  • 七歳で大溈山寺に住み、童子らとともに牛を飼った。生まれつき聡明で、よく竹の枝で牛の背に詩を書いた。詩句は人の意表を突くものが多く、僧たちは驚いて剃髪させ僧とした。
  • 当時、都官の鄭谷が袁州にあって詩名が高かった。齊已は自作の詩を携えて訪ねた。その中に「自封修藥院 別下著僧牀」の句があった。谷は見て「一字改めてから会おう」と言った。数日後に再び訪れ「別掃著僧牀」と改めたと告げると、谷は嘉賞し、詩友となった。
  • また齊已の「早梅」の詩に「昨夜數枝開」の句があった。谷は「數枝では早くない。一枝のほうがよい」と直した。人は谷を齊已の一字の師と呼んだ。
  • 長らく長沙の道林寺に住した。湖南の幕府で詩をよくすると称された徐仲雅・廖匡圖・劉昭禹らはみな声名が高かったが、なかでも仲雅は傲慢で王公にも遠慮しなかった。それでも齊已に会うときだけは必ず畏まり、常人のようには接しなかった。齊已には瘤があったので、その詩を愛する者はふざけて「詩囊」と呼んだ。

僧齊已――江陵での晩年

  • 齊已が蜀へ遊ぼうとしたとき、武信王はその名を知って引き止めた。龍徳元年(921年)、龍興寺で齊已を礼遇し、僧正に署した。しばしば手書を下して手厚くねぎらった。
  • しかし齊已は日頃から鬱々として楽しまなかった。僧の虛中は「老負峨嵋月 閒㸔雲水心」と詩を贈り、その志を傷んだ。
  • 江陵に身を寄せてからは筆墨を慰めとし、『渚宫莫問篇』十五章を作って思いを述べた。
  • ほどなく唐の秦王・從榮に召されて侍った。仲秋の大宴で、齊已は從榮が異志を抱いているのを見てとり、「東林莫碍漸高勢 四海正㸔當路時」の句を詠み、諷刺のかどで罪を得るところであった。のちに脱出して荆南へ帰り、武信王が匿ったおかげで難を免れた。侯王に節を屈しないさまはこの通りであった。
  • 梁震は晩年に吟詠を好み、とりわけ齊已と親しく、互いに唱和した。齊已はついに江陵で没した。みずから衡嶽沙門と号した。
  • 詩八百首があり、孫光憲が序を書いて『白蓮集』と名づけた。
  • 齊已はかつて溈山の林下で一人の僧に会った。その僧は指の爪の下から二振りの剣を出し、空を凌いで躍り去った。剣俠だったのであろう。齊已はしばしばこれを人に語った。
  • また僧の仰山とともに豫章の觀音院に住み、粥疏を作って「粥は良薬と名づけられ、仏の讃嘆したもうところ。義は三檀に冠たり、功は十利に標す。さらに祈る、英哲おのおの願心を遂げ、清晨に備わりて永く白業を資けんことを」と述べた。禅門の徒はその文辞を称え、『食時五觀』と並び伝えるべきものとした。

僧文了――「湯神」と呼ばれた茶の名手

  • 文了は呉の僧。茶を煎じるのに巧みで、当代随一と称された。
  • 武信王のとき荆南に遊来し、紫雲禪院に住まわされた。王は目の前でその技を試させ、大いに喜んで「湯神」と呼び、奏請して華定水大師の号を授けた。人はみな「乳妖」と呼んだ。

荆南僧

  • 名の分からぬ荆南の僧がおり、香を売るのを業としていた。
  • 清泰年間(934-936年)、平等香を売り、貧富によって値を変えなかった。日頃はまったく香を市で買い付けて調合することがないのに、箱の中に蓄えた都梁や鬰金はいくら売っても尽きなかった。その出所を誰も推し量れず、みな仙人ではないかと疑った。

荆南仙女――麻姑から授かった楽曲

  • 荆南仙女は平江節度使の王保義の娘である。幼い時から聡明で並外れており、五歳で『黄庭内景經』『黄庭外景經』に通じ、長じては琵琶をよくした。
  • ある夜、水を渡り山の頂に登る夢を見た。金銀の宮殿があり、その中に羽衣をまとった仙人がいて、みずから麻姑と名乗り、楽曲を伝えた。
  • 以来、毎夜その夢を見て音律を授けられ、一年余りで百余調を得た。いずれも人の世にはない曲であった。とりわけ「獨指商」は、一本の指で一曲を弾くもので、まれにみる妙技であった。
  • のちに文獻王の子の保節に嫁いだ。ふたたび夢に麻姑が現れ「まもなく迎えに来る」と告げた。翌日、庭に雲鶴の音楽が聞こえ、仙女はにわかに世を去った。