十国春秋卷一百二 荆南三 列傳 梁震
要約
梁震は卭州依政の人で、もとの名を靄といったが、唐の郎中劉象に、名の字画が不吉であるとして震と改めるよう勧められ、これに従った。進士に登第して京師に流寓し、梁の開平初年、蜀へ帰る途中で江陵に立ち寄ると武信王に才を惜しまれて引き留められたが、みずから唐臣であり強藩の属吏となるのを恥じ、官職を受けず前進士のまま白衣をもって樽俎に侍る賓客として仕えることを望んだ。王もしばしば震を先輩と呼んで重んじた。
唐が梁を滅ぼしたとき、司空薰らが王に洛陽入朝を勧める中、震だけは唐が天下併呑の志を持ち王を仇敵のように遇うだろうと諫めたが聞き入れられず、王は関を斬ってようやく虎口を脱し、震の言葉の正しさを悔い謝した。唐が蜀を滅ぼして王が落胆したときも、唐主の驕りがやがて我らの福となろうと励まし、明宗が兵を進めた際にも殲滅ではなく牛酒を献じ表を上げて劾すべきと諫めて危機を救った。
文献王の代には兄のように敬われ「郎君」と呼ばれ、王が奢侈を慎み善政を志すと聞いて安心し、老いを理由に監利への退居を願い出て、荆台隠士と号し黄牛に跨って往来する悠々自適の晩年を送り天年を終えた。著した文集一巻が世に伝わり、後継の輔政者として孫光憲を推挙した。
現代語訳全文
梁震
- 梁震は卭州依政の人である。初め名を靄といい、折しも唐の郎中劉象が僖宗に随って蜀に入ったとき、震はその修めた詩を象のもとに持って行った。象は「君の才思は敏妙で、必ず大器となろう。しかしもし名を更めなければ、恐らく小さな障りに阻まれるであろう。かねて名を製る雨がしたたり落ちて、謁を以て人を謁するのに雨で謁しても人に見られないことになる。震の字を易えるよう請う」と言った。震は辰に従うことにした、辰とは龍である、龍が雨に遇えば必ず変化するであろうと。これによって今の名(震)に改めた。まもなく進士に登第し、京師に流寓した。
- 梁の開平の初め、蜀に帰る道すがら江陵を過ぎたとき、武信王はその才識を喜んでこれを留めて遣らせず、判官に奏授しようとした。震は自ら唐臣であるとして強藩の属吏となることを恥じ、すぐに逃げ去ろうとしたが、また禍が及ぶことを恐れ、そこで「震は素より栄宦を慕わない。明公が震を愚かと思わず、必ず参謀議に用いようとされるのなら、ただ白衣をもって樽俎に侍らせるのがよろしいでしょう」と言った。王は心にこれを重んじ、司空薰・王保義とともに賓客とさせようとしたが、震だけは辟署を受けず、前進士と称した。王もまたしばしばこれを先輩と呼んだ。
- 唐の荘宗が梁を滅ぼすと、薰らは皆王が京師に朝することを勧めたが、震は堅くこれを阻んで「唐は天下を併呑する志を持っています。厳しく兵を構え険を守ってもなお自ら保てるか分からないというのに、いわんや数千里を入覲することなどできましょうか。かつ大王は梁室の故将であり、彼が讐敵のように相遇わないと安んじて知れましょうか。行けばまさに擄われることになりましょう」と言った。王は聴かず、身を束ねて唐に朝したが、ついに関を斬ってやっと脱出することができた。帰ってから震に「君の言を用いなかったばかりに、危うく虎口を免れぬところであった」と語った。
- 唐師が蜀を滅ぼすに及び、王はまさに食事をしていたが箸を落として嘆じて「老夫の過ちである」と言った。震は「唐主は蜀を得てますます驕り、亡びる日は遠くありません。それが我らの福とならないとどうしてわかりましょうか」と言った。まもなく荘宗はまさに鄴都の禍に罹り、これによりますます親信を加えられた。
- 明宗の時、唐は房知温を遣わして軍を領し犯入させたが、武信王はその兵が少ないのに乗じて城を開いてことごとくこれを殲滅しようとした。震は諫めて「朝廷の礼楽征伐が出るところは兵が少なくてもその勢いは甚だ大きく、かつ四方の諸侯は各々呑噬をもって志としています。もし大王が不幸にも戦勝を得れば、中朝は四方に兵を徴し、誰が仗順して大王の土地を取ろうとしないでしょうか。大王のために計るなら、書を主帥に致し、かつ牛酒をもって献じ、そのうえで表を上って自ら劾するに越したことはありません。このようにすればほとんど保つことができるでしょう」と言った。折しも王は寝疾して起きられなくなった。
- 文献王が継立すると、とりわけ震に委任し、兄の礼をもってこれに事えた。震は常に王を「郎君」と呼んだ。ある日、王は震に「吾は自ら平生の奉養がすでに過ぎたと念い、今すべての玩好を棄てて経史をもって自ら娯しみ、刑を省き賦を薄くして境内を安んじようと思う。これが吾の願いである」と語った。震は王がその任に克つことを知り、そこで「先王は我を布衣の交わりのように待ち、嗣王を我に属されました。今幸いにも先業を墜とさないでいられました。吾はもう老いました、これ以上人に事えることはできません」と、固く監利への退居を請うた。王はこれがために土洲の上に室を築いた。震は鶴氅を披て逍遥として仙人のようであり、自ら荆台隠士と称した。常に府に詣でるときは黄牛に跨って聴事に至ることを恒としていた。王もまた時にその家を訪れ、斗酒を酌み交わして平生を歓叙し、四時の賜与は甚だ厚く、ついにこれをもって天年を終えた。著すところの文集一巻が世に行われている。
- これより先、薛少尹という者がおり、人相を見る術に長じていた。震が同進士の董と杜無隠とともに薛に叩いて問うと、薛は「梁秀才はこの挙に必ず捷(勝)ち、登第の後は一命にも沾(あず)からないだろう」と言った。後に果たしてその言のとおりになった。震の後、輔政に継いだ者に孫光憲がいる。