十国春秋卷一百二 荆南三 列傳 孫光憲
要約
孫光憲は貴平の人で、字を孟文という。代々農業を営む家に生まれ書を読み学を好み、唐代に陵州判官として声望を得たのち天成の初め江陵に身を寄せ、梁震の推挙で武信王の掌書記となった。王が戦艦を治めて楚と交戦しようとした際は、荆南の士民がやっと生気を取り戻したばかりでまだ疲弊から回復していないと諫めて思いとどまらせた。文献王が楚王馬氏の豪奢を羨んだときは、天子諸侯には礼の等差があり乳臭子の驕侈僭汰は危亡を招くと諫め、王を悔い改めさせた。
南平三代に仕えて累進し荆南節度副使・検校秘書少監に至り、高継冲の代には、宋軍に道を借りられた際に厳戒を説く李景威を峡江の一民に過ぎないと叱りつけ、宋の規模の宏遠を説いて府庫を封じ三州の地を献じさせることを実現させ、宋の太祖からその功を賞されて黄州刺史に任じられた。
博識で、江陵城の地に埋もれた石屋の伝承を、禹が治水にあたり泉源の穴を鎮めたものと解き明かすなど、文献王にも重んじられた。経籍を愛して数千巻を蔵し校讐に努め、『荆台集』『橘斎集』など多くの著作を残し、『花間集』にも六十余篇の詞が採られている。史論は、震の謀略と光憲の文章があってこそ荆南は僕隷から身を起こし五主にわたって国を保てたと評している。
現代語訳全文
孫光憲
- 孫光憲は字を孟文といい、貴平の人である(『北夢瑣言』は富春の人とする)。家は代々農業を営んでいたが、光憲ひとりが書を読み学を好んだ。唐の時、陵州判官となり声望があった。天成の初め、江陵に地を避けた。武信王は荆土をことごとく領有し、四方の士を招致していたので、梁震の推薦を用いて掌書記に入れた。王がまさに戦艦を大いに治めて楚と角逐しようとしたとき、光憲は諫めて「荆南は乱離の後、公の恩沢に頼ってやっと士民に生気が生じたところです。もしまた楚と交悪すれば、いったん他国が我らの疲弊に乗じたなら、大いに憂うべきことになります」と言った。王はそこで止めた。
- 文献王が立つと、折しも梁震が退休を乞い、政事をすべて光憲に委ねた。王はいつも馬氏の豪奢を羨み、僚佐に「馬王(楚王)は大丈夫と言えよう」と語った。光憲は「天子・諸侯には礼に等差があります。彼の乳臭子(若造)はただ驕侈僭汰にふけって一時の快を取っているだけで、危亡の日は遠くありません。また何ほどのことがあって慕うに足りましょうか」と言った。王は忽ちに悟って「公の言はその通りだ」と言い、これがために悔い謝することが久しくあった。
- 光憲は南平三世に事えていずれも幕中に処り、累官して荆南節度副使・朝議郎・検校秘書少監・試御史中丞となり紫金魚袋を賜った。繼冲の時、宋の使い慕容延釗らが湖南を平らげるにあたり荆に道を仮り、兵をもって城外を過ぎることを約したとき、大将李景威は繼冲に厳しく兵を備えることを勧めたが、光憲はこれを叱って「汝は峡江の一民に過ぎない、どうして成敗を識ろうか。中国は周の世宗の時よりすでに天下を混一する志があり、いわんや聖宋は真主を受命したというのに、王師にたやすく当たることなどできない」と言い、これにより繼冲に斥堠を去らせ府庫を封じさせ、悉く三州の地を献じさせるよう仕向けた。宋の太祖はその功を嘉し、光憲に黄州刺史を授け、賜賚を加等した。郡にあってもまた治まっていると称された。乾徳の末に卒した。
- 光憲は博物稽古の人であった。これより先、唐の元和中、裴宙が荆州を鎮したとき、地を掘って一石を得たが、その規模は悉く江陵城の制に倣っていた。これを他所に徙し置くよう命じると、たちまち淫雨がやまなくなり、旧に復すとようやく天は晴れた。ある日、文献王がその地を経て光憲に問うと、光憲は「昔、伯禹は治水するにあたり、岷より荆に至るまでその泉源の穴を定め、万世の後にあるいは氾濫することを慮り、そこで石屋をもってこれを鎮めたのでしょう」と言った。王は大いに感嘆し賞賛し、ますますこれを重んじた。
- 光憲は性来経籍を嗜み、書を数千巻集め、あるいは自ら書写して孜孜として校讐に努め、老いても廃さず、自ら葆光子と号した。著すところ『荆台集』『橘斎集』『玩筆傭集』『鞏湖編』『玩北夢瑣言』『蚕書』若干巻がある。また『続通暦紀事』を撰したが、頗る実を失っていたので、太平興国の初め、詔してこれを毀たせた。
- 光憲は素より文学をもって自負し、荆南に処っていて怏怏として志を得ず、常に史氏の作を慕い、頗る諸侯の幕府に居て才力を展べるに足りないことを恨みとしていた。常に知交に「どうして麒麟を獲る筆(史書を書く筆)が、かえって倚馬の用(軍中の急な文書を書く用)に用いられるものか」と語った。光憲はまた小詞を善くし、蜀人は『花間集』を輯めるに際し、その辞を採ること六十余篇に及んだ。
史論
- 論じて言う。南平は僕隷から身を起こしながら、よく節を折って賢を下し、震は謀略をもって進み、光憲は文章をもって顕れ、ついに荆土を保ち善始善終した。区区たる一隅にありながら世を歴ること五主に及んだのも、また士の力を得たからであろう。