十国春秋卷一百二 荆南三 列傳 倪可福

倪可福

  • 倪可福(『江陵志餘』は闕、倪福可に作るのは非である)は□(欠)の人である。唐の天祐三年、武信王が荆南留後を権知していたとき、可福は当時駕前指揮使であった。折しも朗州の雷彦恭がしばしば荆南を犯したので、梁王全忠は可福に官兵五千人を率いさせてこれを戍らせた。可福は方略を指画し力めて彦恭を拒いだので、朗の兵はしだいに引き去った。ほどなくまた寸金堤を築いて水を激して蜀を捍ぎ、功があった。武信王はその勇を愛し、麾下に隷させて親校とし、かつ娘を可福の子に妻せて心が相通じ合った。可福は鋒を摧き陣を陥落させ向かうところ敵に克ったので、李洪が江陵に来寇したとき、可福は兵をもってこれを撃破し、推されて首功とされ、まもなく都指揮使に遷った。龍徳の時、江陵の城が圯(くず)れたので、可福は卒万人をもって外郭を修めたが、期日どおりに築けなかった。武信王は功程の緩慢を責め、これに杖百を加えたが、娘に「幸いにも汝の舅に語ってくれ、吾は衆を威(おど)して事を弁じさせようとしたのだ、辱めを示そうとしたのではない」と言い、白金百鋌をこれに遺った。可福はついに功名をもって終わり、江陵の東三十里に田を賜り、子孫はその地に聚居し、諸倪岡と号した。