十国春秋卷九十九 閩十 列傳 虞臯

仙茅山に消えた奇人

  • 虞臯は福州永貞の人である。黄精(薬草)を売ることを業としていた。恵宗の時、永貞の朱益公という者が客を好み、臯は貧しさが甚だしかったのでこれに身を寄せたが、また病んで痩せ衰えた。この時、益公のもとに集まる客はみな美しい衣服を身にまとい、誰もが臯を嫌わないということはなかった。臯はますます豪放になり、常に腹をはだけて渓のほとりに横たわり、蘆笛を吹いてみずから楽しんでいた。
  • 龍啓の初め、陳守元が道士として貴幸を得ていたが、客の中に臯を守元に悪しざまに言う者があった。守元は怒り、監奴(下男)に命じて数百回鞭打たせた。益公はこれより以後、あえて再び臯を留めようとしなかった。
  • 臯はすでに困窮し、旧友の木当敏は臯に背いて去り、臯を顧みなかった。臯は天を仰いで大笑いし、そこで去って仙茅山に入った。当敏は、臯が貧しく行くあてがないだろうと思い、表向きは(見送りに)道祖を送るふりをして、密かにこれに随っていくと、羅喜洞に至り、洞門が突然開いた。その中には玉堂金闕が横たわり広がっており、その果てを知ることができなかった。官属(役人たち)は甚だ盛んで、翠の羽蓋(旗、一部欠字)を建てて後ずさりしながら前で迎えた。当敏は大いに驚き、頭を叩いて血を流した。臯は目でこれを笑った。
  • しばらくして殿上で客を宴し、さらに当敏のために僕妾の食を賜い、堂の下に座らせた。十日ほど滞在して、当敏が帰る途中、益公の門を過ぎると、すでに廃墟となっていた。凡そ数百余年を経ていたのであった(『榕隂新簡』に言う、当敏が帰る時、臯および賓客はみな洞門まで彼を見送り、客が尺八で玉磬を撃つと、臯はこれに和して歌い、「朝には雄となり、暮れには雌となる。天は終に尽きるのだ、人生はいくばくもない」と言った。歌い終えると、忽然として皆去った。当敏は荊棘を踏んで帰ってきたが、それは洪武十二年のことであったという)。