十国春秋卷九十九 閩十 列傳 譚紫霄

張道陵の符篆を継ぐ

  • 譚紫霄は泉州の人である。陳守元と親しかった。守元は地を掘って木札数十枚を得たが、それらは銅の盎(かめ)に納められており、いずれも漢の張道陵の符篆であって、朱墨は新しいもののようであった。(守元は)これを蔵し弆(しま)っていたが用いることができず、紫霄に授けた。紫霄はこれをことごとく理解し、そこでみずから「道陵の天心正法を得た」と言い、鬼魅を叱咤し疾病を治すことに、しばしば効験があった。
  • 康宗はこれを奉じて師とし、「正一先生」に封じ、月ごとに山水香を給してこれを焚かせた。閩が滅びると、廬山の棲隠洞に寓居し、学ぶ者は百余人であった。道術があり、星宿を醮(まつ)り黒煞神君を事とし、禹歩(道士の歩法)魁罡(星の名)で災いを祈禳し福を祈り、頗る人の寿夭(長命短命)を知った。
  • 南唐の武昌節度使の何敬洙が、寵愛する婢を井戸の中に置いて死なせ、人はこれを知る者がなかった。敬洙が病に罹り、紫霄を召すと、夜中に髪を振り乱し剣を仗(と)って考治(調伏)し、女の厲鬼(怨霊)が現れてみずから、祟りをなしていることの理由を訴えた。翌朝、人を退けて敬洙にこれを語り、そこで丹符を書いてこれを遣わすと、病はすっかり治った。
  • 廬山の僧が道を開こうとしたが、大きな石が堅くて鑿ることができなかった。紫霄は行って見て「これは固より容易である」と言い、杯の水を求めて噀(ふ)きかけ、工に命じて鑿を施させると、手に応じて粉のようになった。
  • 南唐の後主はその名を聞き、建康に召して「金門羽客」の号を賜り、階を金紫(高位の官服)とし、蜀の杜光庭に比したが、いずれも辞退して受けなかった。金陵が陥落した後、紫霄は年百余歳にして廬山の棲隠洞で没した。人はこれを尸解(仙人になって遺骸だけ残す)と言った。帰葬の日には、祥雲と白鶴がこれを取り巻いた。