十国春秋卷九十九 閩十 列傳 陳守元

要約

陳守元は閩県の道士で、邪術をもって恵宗に取り入り、宝皇宮に住まわされると、宝皇の託宣と偽って恵宗にいったん位を退かせ、後には六十年の天子となると告げた。恵宗はいったん長子に位を譲ったが、まもなく復位し、守元はさらに六十年後には大羅仙主になれると偽って伝え、恵宗は宝皇より冊命を受けたと称して即位し、守元は「洞真先生」の号を得た。

康宗の代には天師として絶大な信任を受け、将相の任免や刑罰・人材登用にまで介入して賄賂を貪り、康宗に禁中三清殿を作らせて黄金数千斤で宝皇像・無始天尊像・老君像を鋳造させるなど政治を私物化し、国政はすべて宝皇の命と称されて国は狂乱の様を呈した。連重遇の乱が起こると衣服を替えて逃げようとしたが宮中で乱兵に殺された。

妹の靖姑は、山中で守元に食を届ける途中に出会った飢えた老婆に食を分け与えたことで秘法を授けられ、鬼神を使役する術を得た。永福で妖をなしていた白蛇を弟子とともに討ち三匹の蛇の化けた女子を古田の井戸で捕らえた功により、恵宗から順懿夫人に封じられたが食邑を辞退し、宮女三十六人を弟子に賜って後に海上に隠れ住み、その最期は知られない。

現代語訳全文

寶皇の言を借りた道術と誅殺

  • 陳守元は閩県の人である。まもなく道士となり、左道(邪しまな道術)をもって恵宗に信任された。恵宗は宝皇宮を作って彼を住まわせた。守元は偽って大言を為し、「宝皇(神)の命により、王はしばらくその位を避けるべきである。後には六十年の天子となるであろう」と称した。
  • 恵宗は喜んで位を譲り、長子に府事を主らせた。道名を玄錫といった。まもなく(恵宗は)位に復し、守元を遣わして宝皇に、六十年の後にはどこへ帰すべきかを問わせた。守元はまた偽って宝皇の言葉と称して「六十年後にはまさに大羅仙主となるであろう」と伝えた。恵宗はそこで皇帝の位に即き、宝皇より册(冊命)を受けたとし、守元に「洞真先生」の号を賜った。
  • 康宗が跡を継ぐと、守元を尊んで天師とし、ますますこれを信任し重んじた。将相の入れ替えや刑罰・選挙(人材登用)に至るまで、多くはこれと議した。守元は賄賂を受け請託を受けることに至らないところがなく、ますます康宗に勧めて禁中に三清殿を作らせ、黄金数千斤で宝皇および無始天尊・老君の像を鋳造し、昼夜楽を奏し香を焚いて祈祷した。政治は大小を問わずすべて宝皇の命であると称してこれを決し、一国は狂ったようであった。
  • 連重遇の乱に際して、守元は服を替えて逃げようとしたが、乱兵に宮中で殺された。
  • 靖姑は守元の妹である。かつて山中で守元に食事を届けようとした際、飢えた老婆に出会い、簞(弁当箱)を開けて食を分け与えた。(老婆は)そこで秘籙符篆を授け、鬼物と交通し、五丁(五行の神兵)を駆使し、百魅(多くの妖怪)を鞭打つ術を得た。
  • 永福に、白蛇が妖をなして郡県にしばしば害を及ぼし、あるいは宮禁に姿を隠して人の形に化けることがあった。恵宗は靖姑を召してこれを駆逐させた。靖姑は弟子を率いて丹書符を作り、夜に宮を囲んで蛇を斬ると、三匹の蛇に化けて三人の女子となり、囲みを潰して逃げ出し、飛んで古田の井戸の中に入った。靖姑は井戸を三重に囲み、そこで捕らえた。
  • 恵宗は詔して「蛇の妖は妖術を行い、天理に逆らい、後宮に潜んで隠れ、百姓を誑かし惑わした。靖姑はみずから神兵を率いてその余孽を服させ、元元(人民)を安んじた。その功は極めて大きい」と言い、靖姑を順懿夫人に封じ、古田の三百戸を食邑として与え、その一子を舎人とした。靖姑は食邑を辞退して受けず、そこで宮女三十六人を弟子として賜った。
  • 数年後、海上に逃れ住み、その終わりを知る者はいなかった。