十国春秋卷九十九 閩十 列傳 建州僧

名を知られぬ予言者

  • 建州の僧は、その名を知られていない。常に狂人のようで、言動には多く験証があった。邵武の邑の前、渓に臨んで大きな盤石があり、水を去ること百歩ほどであった。ある日、突然墨でその半分に画を描き、その上に趺坐して竿を持ち、魚を釣るような様をした。翌日、山水が発(増水)して、ちょうどその墨で描いた線のところまで来て退いた。
  • 天徳元年、道に臨む木の枝で南に向いたものをことごとく切り落とした。人がこれを問うと、「旗や幟の邪魔にならないようにするためだ」と言い、また「一方に帰する(統一される)べきことを示すものだ」とも言った。後に南唐の兵が入ってきた時、皆その下を行軍した。
  • また城外の僧寺には、大きくその壁に「某地に何人」と署してあったが、軍が城下に至った際、僧寺を分けて占拠して柵とし、そこに配置した人数は一つも違わなかった。まもなく僧はついに南唐の兵に殺された。
  • これより先、永隆の時、国内は多難で民は生業に落ち着けなかった。ある人が僧に「世はいつ安んじるのか」と問うと、答えて「私が去るのを待つべきだ」と言った。(僧が)死んで後、閩は平定され、その言葉の通りになった(また骨相を見ることに巧みな僧がいた。永春主簿の蔡儼がこれに尋ねると、僧は「短い主簿だ」と言った。儼は笑って「私は試験に及第すれば、どうして再び県の佐官などになろうか」と言ったが、数か月後、果たして卒した)。