十国春秋卷九十九 閩十 列傳 僧備

外国の三蔵を論破す

  • 僧備は閩の謝氏の子である。幼い頃から釣りを垂れることを好み、南台江に小艇を浮かべて漁師たちに親しんだ。咸通の初め、三十歳の頃、突然舟を棄てて髪を落とした(一説には、備は姓を姚氏といい、父が漁を業として水に落ちて死んだので、それによって出家したという)。
  • 義存と禅友となり、義存はその苦行を嘉して「頭陀」と呼んだ。備はかつて囊を担いで嶺の外に出た。ある日、足を傷めて血を流し、豁然として悟り、そのまま嶺を出ることをやめ、雪峰に依って咨決(教えを乞う)した。
  • 義存が「なぜあまねく諸方を参らないのか」と問うと、備は「達磨は西土から来ず、二祖は西天へ行かない」と言った。義存は深くこれを然りとし、嘆じて「備頭陀は再来の人である」と言った。
  • 備は初め普応院に住み、後に福州の元沙に遷った。太祖および監軍の韋某はしばしば往来し、師の礼をもって彼を待遇した。学徒はおよそ八百余人であった。
  • ある時、西天国の声明三蔵が到着すると、太祖は備にその力量を試すよう請うた。備は鉄の火箸で銅の炉を撃って「これは何の音か」と問うた。三蔵は「銅と鉄の音です」と言った。備は「大王よ、外国の人に謾(あなど)られてはなりません」と言った。三蔵は答えることができなかった。
  • 開平二年に没した。太祖は彼のために塔を建て、「宗一禅師」と号した。