偈と讖に事跡を残す
- 僧文炬は字を子薫、また字を涅槃といい、福州の黄氏の子である。唐末の人で、生まれた時に火の中に蓮が開いたという。成長すると県の獄卒となった。時々役目を放り出して禅院へ行き講義を聴いた。役人はこれを禁じることができなかった。
- 後に発する言葉が讖(予言)となり、歴々として証文のごとく的中した。太祖が閩に入った時、文炬は姿をくらまして莆田にいた。邑中で常に「私が世を去って六十年の後、無辺身菩薩がやって来てこの国を治めるであろう。私の偈を聞け」と言い、「小月走爍爍(小さな月が走り、きらきらと輝く)、千落及万落(千の村里、万の村里)、処処鳳離穴(至る所で鳳凰は巣を離れ)、家家種葵藿(家々では葵と藿を植える)」と言った。
- また邑人に語って「私の居るこの地は干戈が動くことはないだろう」と言った。光啓二年に没した(『五灯会元』には「乾寧年間に示滅した」とある)。
- 後の人はその言葉を解釈して、「小月走とは趙のことである、爍爍とは火徳王(後唐か)である、鳳離穴とは藩鎮が離散することである、葵藿を種うとは人が耕作することである、無辺身とは広大なことである」と言った。宋の芸祖(太祖)が即位したのは建隆庚申の年で、彼が光啓戊午の年に示滅したときから数えれば、六十二年に当たる。五代の時、莆田は兵禍に及ばず、留従効・陳洪進が前後して帰順したので、「干戈が動かない」と言ったのである。
- これより先、文炬が西院の法堂に詣で、竹杖を回しながら入ったところ、ちょうど五百人ほどの僧が時疫に罹っていた。文炬は杖でこれらを次々と点じてゆくと、それぞれ点じられるにしたがって起き上がった。太祖は大いに礼をもって重んじ、泉州に崇福院を創建して彼を住まわせた。「慧日禅師」と号した。