十国春秋卷九十八 閩九 列傳 李仁達

要約

李仁達は光州の人。恵宗に仕えて元従都指揮使を十五年務めたが、景宗の代に建州へ叛き奔り、朱文進が帝位を簒うと再び福州へ叛き奔って建州を取る策を献じるなど変節を重ね、文進に反覆を憎まれて福清に黜けられ不遇をかこった。天徳帝が福州を得て従子継昌に守らせると、仁達は不安を覚え、陳継珣と結んで鎮遏使黄仁諷を説き「光山の一介の庶民に過ぎなかった王潮兄弟でさえ福建を取った」と語って継昌を捕らえて殺させ、みずから立とうとしたが衆心を得るため僧卓巌明を傀儡の帝に立てて臣従を装った。その後まもなく巌明も殺してみずから立ち、南唐に款を通じて「宏義」と改名した。

唐が建州を破ると帰順の召しを拒んで「宏達」と改名し晋に臣従したが、唐軍が外城に迫ると再び「達」と改名して呉越に降り、その援軍とともに福州で唐軍を大破する功を挙げた。呉越の忠遜王に厚遇されて「孺贇」と改名したが、内心後悔して金の筍を賄賂に贈り帰還を図り、呉越の戍将鮑修譲との不和から唐への内通を謀って逆に誅殺され、一族も滅ぼされた。弟の通も福州留後を知っていたが同じく殺された。

史論は、仁達が陰に陽に変節し、行く先々で臣と称してめまぐるしく名を変え続けた末に身を滅ぼしたさまを、漢の呂布や晋の劉牢之になぞらえて評する。

現代語訳全文

変節と屡次の改名

  • 李仁達は光州の人である。恵宗に仕えて元従都指揮使となり、十五年間、職を遷らなかった。
  • 景宗の代に建州へ叛き奔り、軍将となった。朱文進が帝位を簒うと、再び福州へ叛き奔り、建州を取る策を陳べた。文進はその反覆(変節)を憎み、福清に黜け居らせたので、(仁達は)鬱々として志を得なかった。
  • 天徳帝が福州を得るに及んで、従子の継昌を遣わしてこれを守らせたが、仁達は不安になり、ひそかに陳継珣と結び、鎮遏使の黄仁諷を説いて言った、「唐の兵が建州を攻めており、富沙王はみずからも保てないだろう。どうしてこの地を保有できようか。昔、王潮兄弟は光山の一介の庶民に過ぎなかったが、福建を取ることは手のひらを返すようなものであった。まして我々がこの機会に乗じてみずから富貴を図ろうというのに、何を憂えて彼らに及ばないことがあろうか」と。
  • そこで継昌を捕らえて殺し、みずから立とうとしたが、衆が従わないことを恐れ、偽って神光寺の僧卓巖明を(皇帝として)衆に示して「これはただ人ではない」と言い、諸将吏を率いて北面し、これに臣従した。
  • その後、また巌明を殺し、みずから立ち、唐に款(誠意)を送った。唐の中主は仁達を威武軍節度使とし、その名を改めて「宏義」とした。
  • 唐が建州を破ると、人を遣わして宏義を朝廷に召したが、宏義はこれに従わず、また名を改めて「宏達」とし、晋に表を奉じた。(晋は)宏達に同平章事を加えた。
  • ほどなく唐の兵が外城に入って拠ると、宏達は緊急時に頼るものがなく、また名を改めて「達」とし、呉越に臣と称した。まもなく浙(呉越)の兵とともに、福州城下で唐の軍を大いに破った(太祖の時、童謡に「風吹楊葉鼓山下、不得銭来兵不罷(風が楊の葉を吹き鼓山の麓に、銭が来なければ兵は退かない)」というものがあったが、ここに至って銭塘(呉越)の兵が来て、江南(南唐)の包囲が解け、その将の楊匡業を捕らえたのは、まさにその予言の実現である)。
  • 呉越の忠遜王(銭弘倧)は手厚く慰め労った。達はみずから銭塘へ赴いて謁見し礼を謝すと、(呉越王の)承制によって侍中を兼ねさせ、その名を改めて「孺贇」とした。
  • ほどなく孺贇は内心後悔し、金の筍二十本を懐に入れて呉越の臣胡進思に賄賂し、帰還を求めた。帰るに及んで、呉越の戍将である鮑修譲と折り合わず、また修譲を殺して唐に降ろうと謀った。修譲は兵を率いて孺贇を誅し、その一族を滅ぼした。
  • これより先、王氏が城壁を築いた時、陶製の煉瓦に銭文(銭の模様)を刻印していたが、これを削り去るよう命じてもその銭文はますます明らかになった。ここに至って福州が銭氏(呉越)の所有となったのは、人々はこれを先兆であると考えた。
  • (孺贇の)弟の通は福州留後を知っていたが、これも殺された。

史論

  • 李仁達は陰に陽に変節し、行く先々で臣と称し、しばしば名を変えたが、ついにその身に禍が及んだ。漢の呂布や晋の劉牢之は、仁達に似た人物と言えよう。