十国春秋卷九十八 閩九 列傳 王延稟

要約

王延稟は本姓周、名を彦琛といい、太祖の養子となって王姓を賜った。片目が不自由で「独眼竜」と呼ばれ、官を積んで左金吾衛将軍検校刑部尚書に至り、建州軍州事を知り刺史となった。嗣王延翰から後宮の女子選抜を命じられた際、返書の言葉が不遜であったことから両者に隙が生じ、延稟はついに兵を率いて福州を襲い延翰を弑し、恵宗(延鈞)を推戴して即位させた上で建州に帰った。見送りに出た恵宗に「二度と老兄を煩わせるな」と大言したが、恵宗はこれを深く恨みに含んだ。

のち病と称して郷里に退き子の継雄に建州を譲ったが、二年後に恵宗の病を聞くと次子継昇に建州を任せ、自らは水軍を率いて福州西門を、継雄には東門を攻めさせた。従子の仁達が舟中に甲兵を伏せ、偽って降伏の白旗を掲げる計略で継雄を誘い出して斬ると、延稟の軍は総崩れとなり、延稟自身も捕らえられて市で斬られた。かつて略奪の際に法華経を誦す僧を怒って殺したことがあり、後に目に映る恵宗の姿がその僧の生まれ変わりに見えたという因果の逸話も伝わる。没後は霊昭王、天徳元年にはさらに武平威粛王に追封された。

現代語訳全文

弑逆・擁立から市に斬らるまで

  • 王延稟は本姓を周、名を彦琛といったが、太祖が養って子とし、今の姓名を賜った。片目が見えず、人々もまた彼を「独眼竜」と呼んだ。官を積んで左金吾衛将軍・検校刑部尚書となった。
  • 貞明四年、建州軍州事を知り、まもなく刺史に任じられた。ちょうど嗣王の延翰が、延稟に後宮の女子の採択(選び出すこと)を命じたが、延稟は返書の言葉が不遜であったので、これによって両者に隙が生じた。
  • まもなく延稟は兵を率いて嗣王を弑し、恵宗を推戴して即位させた。その後、建州へ帰った(『五国故事』には「泉州に還った」とあるが誤りである)。
  • 恵宗は郊外まで見送り、別れに臨んで(延稟は)大言して「老兄に二度と来させないでいただきたい」と言った。恵宗はこれを深く恨みに思った。
  • ほどなく(延稟は)奉国軍節度使に任じられ、建州を知り、同中書門下平章事(『通鑑』には「中書令を兼ねる」とある)・検校太尉・侍中となった。
  • 天成四年、病と称して郷里の邸に退き、建州をその子の継雄に授けることを願い出た。二年ののち、恵宗の病を聞き、そこで次子の継昇に建州を知らせて留後とし、兵を率いて福州を侵し、西門を攻めた。冦雄(継雄)には海を渡らせて東門を攻めさせた。
  • 恵宗は従子の仁達に水軍を率いさせてこれを拒がせた。仁達は舟中に甲兵を伏せ、偽って白い旗を立てて降伏を願い出た。継雄は喜び、左右を退けて舟に登ったところ、伏兵が起こって継雄を斬り、その首を西門に懸けた。
  • 延稟は継雄の首を見て大いに嘆き悲しんだ。仁達は兵を放って西門を大いに攻撃し、(延稟の)兵は皆潰えて逃げ去った。ほどなく延稟は捕らえられ、市で斬られた(『五国故事』にはまた別に、延鈞(恵宗)が延稟の言葉を恨みに思い、後に病と偽って死んだと延稟に訃報を伝えたところ、延稟がまた来たので、兵をもって南台江で迎え、舟の中でこれを殺し、その首を取ってきて「果たして老兄がまた煩わされてやって来られたな」と責め、そのまま無諸市(福州)に梟首したとある)。
  • (恵宗は延稟の)姓名を(もとの周氏に)戻した。継昇および延稟の末子の継倫は敗北を聞いて、皆銭塘(呉越)へ奔った。
  • はじめ延稟が光山から挙兵して建州に至った時、ある山寺に入って略奪を行った際、一人の僧が法華経を誦していて、時を移してもすぐに立ち上がらなかった。延稟は怒ってこれを殺した。その後、常に目の中に僧の姿を見るようになり、細かに見ればそれは恵宗であった。これにより延稟は、恵宗はその僧の後身(生まれ変わり)ではないかと大いに疑うようになった。ここに至って、ついにその無実の恨みが証されることとなった。
  • その二年後、建州に廟を立て(廟を建てた経緯は未詳)、霊昭王に封ぜられた。天徳元年、武平威粛王に加封された(宋人の余良弼が撰した『英烈王廟記』に載る延稟の事は正史とやや異なるので、ここに附記する)。