聚斂で「楊剥皮」と呼ばれ滅亡を招く
- 楊思恭は建州建陽の人である。初め富沙王の節度巡官であったが、まもなく王が殷帝と称すると、思恭は兵部尚書となり、ほどなく僕射に遷って軍国の事を統轄した。
- この時、殷は国を建てたとはいえ、実質は一州にすぎず、土地は狭く民は貧しく、軍旅は絶えることがなかった。思恭は聚斂に長けたことで寵を得、これによってしだいに田畝・山沢の税を増やし、魚・塩・蔬菜・果物に至るまで倍にして徴収しないものはなかった。国人はこれを「楊剥皮(楊の皮剥ぎ)」と呼んだ。
- 唐の兵が急いで建州を攻めると、思恭は兵を率いて統軍使の陳望を督戦させた。望は「江淮の兵は精鋭で将は勇猛です。国の安危はこの一挙にかかっています。必ず万全の計を立ててから動くべきです」と言った。
- 思恭は怒って「唐の兵が深く侵入し、陛下は目も閉じられぬほどのご心痛で、これを将軍に委ねられたのだ。今、唐の兵は数千に過ぎないのに、将軍は一万余りの軍勢を擁しながら、その態勢がまだ定まらないうちに撃とうとしない。もし唐の兵が恐れて自ら退いたなら、将軍はどんな顔をして陛下にお目にかかるつもりか」と言った。
- 望はやむを得ず兵を率いて水を渡り、唐と戦い、望は戦死した。思恭はかろうじて身一つで逃れた。
- まもなく唐に帰順すると、唐の中主は思恭を斬って建州の人々に謝した。先に唐の兵が侵入した時、建州の人々は思恭の重い取り立てに苦しみ、争って木を伐り道を開いて(唐軍を)迎え入れた。閩の滅亡は、実に思恭がその罪の首謀であったという。
史論
- 陳峴・薛文傑・陳郯・林興は、いずれも小人の中でもとりわけひどい者たちである。蔡守蒙はもとより清廉の名があったのに、途中で節を改めたのはどうしてであろうか。陳匡範・黄紹頗・余廷英は前後して利をもって君に取り入り、永隆年間に国が振るわなかったのはこれによるものである。李仁遇は美色によって宰相の地位を得たが、(漢の)董賢に比べても醜いことである。楊思恭に至っては、収奪して民の皮を剥ぐようなことをして怨みを買い、区々たる小国をついに祭祀も絶える(滅亡させる)に至らしめた。その身を全うすることなど、望めようか。