十国春秋卷九十七 閩八 列傳 練寯

活人の恩によって建州城を全うす

  • 練寯は章仔鈞の妻である。生まれつき肌肉と髪が豊かで、深く沈着で端正剛毅、知識は人に過ぎ、終日みだりに言葉を発したり笑ったりしなかった。仔鈞は寯の言葉によって二人の校(士官)を釈放したが、その言葉の詳しい経緯は仔鈞の伝の中にある。
  • この時、寯は諸子に命じて二人の校を諭させ、「速やかに立ち去り、市で戮せられることのないように」と言い、かつ金の腕輪を与えてその出発を送り出した。二人の校は望み拝んで感泣し、天を仰いで誓って「夫人のご恩に、もし報いなければ、この太陽に誓って(罰を受けよう)」と言った。
  • そのまま南唐に奔り、長い年月ののち、仔鈞は死んで建州城に葬られた。建州が破られた時、その二人の校はまさに軍中にあり、一人は行軍招討使(ある説では邊鎬であるという)となり、一人は先鋒橋道使(ある説では王建封であるという)となっていた。彼らは私かに練夫人の再生の恩を思い、使いを遣わして金帛を寯に贈り、白旗を授けて「私はまさにこの城を殲滅しようとしているが、夫人はその旗を門に立てられよ」と言い、すでに士卒に犯すなと戒めていた。
  • 寯は金帛を却け、その旗も返して言った、「あなた方は今、恩に報いようとして、ただ私の家だけを生かそうとしておられるが、それでどうして義と言えましょうか。城中の人は十万を下らず、必ずしも皆が罪あるわけではありません。あなた方がもし旧恩を思われるなら、どうかこの城全体を全うしてください。もしどうしても屠りたいとおっしゃるなら、私の家も皆と共に死ぬまでで、独り生きることはいたしません」と。
  • 二人の校はその言葉に感じ入り、ついに(屠城を)止め、「夫人の仁は、鬼をして人たらしめるものだ」と言った。ついに城を屠ることはなかった。
  • 寯は後に渤海郡賢徳越国夫人に累封された。子は十五人あり(『章氏世系碑』にはまた「十八子」とある)、孫は六十八人であった(宋の宰相章得象もその孫である)。皆、顕貴の位に上った。長子の仁坦は南唐に仕えて検校太傅・武都郡開国伯に至り、三子の仁燧は南唐に仕えて検校司徒・建州刺史に至り、とりわけ早くに顕達した。当時の人々は、これを「活人の報い」であると考えた。