十国春秋卷九十七 閩八 列傳 江為

刑に臨みて詩を索める

  • 江為は、その先祖は宋州の人であったが、乱を避けて建陽に移り、ついに建州の人となった。廬山の白鹿洞に遊び、処士陳貺に師事すること二十年、とりわけ詩に巧みで、風人(詩経の国風の作者たち)の体があった(為はかつて堤の柳を吟じた詩があり、「錦の纜、竜の舟、万里より来たる。酔郷の繁盛は忽ちに塵埃となり、空しく両岸に千株の柳を残し、雨葉風花は恨みの媒(なかだち)となる」というもので、当時大いに伝えられた)。
  • ちょうど福州が乱れた際、故人(旧友)で福州の官属となっている者がおり、禍が及ぶことを恐れて江南(南唐)へ逃げようとした。密かな道を通って為に謁見を求めると、為は彼のために表を書いて草稿とし、江南に投じさせようとした。その人はまだ国境を出ないうちに、辺境の役人に捕らえられ、袋の中から為が作った表章が見つかった。ここに為も、逃げようとした者ともども捕らえられ、械(かせ)をつけられて刑場に連行された。
  • 為は刑に臨んでも言葉と顔色を変えず、「嵇康の死に際しては、日影を顧みて琴を弾いたという。私は賦一篇を弾ずれば十分だ」と言い、そこで筆を求めて詩を作り、そして死んだ。これを聞いた者はこれを傷ましく思った。詩集一巻が世に伝わる(考えるに、馬令『南唐書』には、為に『廬山白鹿寺に題す』という詩があり、「吟じて蕭寺の旃檀閣に登り、酔いて王家の玳瑁の筵に倚る」というものであった。元宗が南に遷る際にこの寺に駐まり、その詩を見て久しく称賛した。為はこれによって傲慢気ままとなり、みずから「青紫(高位高官の印綬)を拾い上げるようなものだ」と思い込み、そこで金陵に詣でて挙(推薦)を求めたが、しばしば有司に黜けられ、鬱々として自ら制することができず、書物を束ねて呉越へ亡命しようとし、ちょうど共謀者が変事を上告したことにより、その状況が明らかになって罪に伏したという。これによれば、為は南唐に殺されたことになり、いずれが正しいかは審らかでない)。