十国春秋卷九十七 閩八 列傳 詹敦仁
要約
詹敦仁は固始の人、字は君沢。乱を避けて仙遊の植徳山下に隠れ、康宗に数百言の書を上ったところ召されて酒を賜り決参軍事に任じようとされたが、「周の粟をたとえ栄えても、どうして忍んで食べようか」との詩をもって仕官を謝絶し、袍笏も受けずまた門を閉ざした。清源節度使留従効の再度の招きには応じ、小渓場の監となって場を県に昇格させる功を立てたが、まもなく王直道を推挙して自らに代え、佛耳山に隠居して自ら「清隠」と号し、『清隠堂記』にその閑適の暮らしを書き記した。
博雅の誉れが高く、留従効から南漢主劉龑が「龑」の字を選んだ由来を問われた際には、伏羲・蒼頡の文字創始から歴代の避諱の歴史を博引して長大な詩答をなし、従効を大いに感嘆させた。数年後に没し、子の琲もまた父の遺風を継いで鳳山に隠れ「鳳山山人」と号し、陳洪進の推薦にも固く辞退して応じなかった。
史論は、閩末の官吏の多くが恥を知らず取り立てて言うに足りない中で、鳳山に去った劉乙と佛耳山に隠れた詹敦仁の二人こそ、世を遁れて節を全うした人物であり、『易』にいう「鴻は逵に漸む、その羽は儀とすべし」の言葉にふさわしいと高く評価する。
現代語訳全文
佛耳山に清隠す
- 詹敦仁は字を君澤といい、固始の人である。乱を避けて仙遊の植徳山下に来て隠れた。康宗に数百言に及ぶ書を上ったところ、康宗はこれを召して酒を飲ませ、留めようとし、決参軍事に任じようとした。敦仁は詩をもって謝絶した(「周の粟をたとえ栄えても、どうして忍んで食べようか。葛の廬をしきりに顧み、いたずらに思いを労する」の句がある)。
- 強いて袍笏(官服の道具)を与えようとしたが受けず、その後また門を閉ざして出なかった。清源節度使の留従効が再びこれを招くと、そこで小渓場の監(管理官)を求めた。到着すると、場を県に昇格させることを請い、まもなく王直道を推挙してみずからに代え、佛耳山に隠居し、みずから「清隠」と号した(敦仁の『清隠堂記』に言う、「邑の西を去ること百余里に、佛耳という山がある。切り立って高く天に届き、遠く三郡にまたがっている。田があって耕すことができ、水があって住むことができる。私はこれを占って(住処を)築いた。堂に『清隠』と榜(額)を掲げた。烟が収まり雨が晴れ、雲が捲れて天が高く、山々が髻のようにそびえて軒(家)のように動き、風が木を梳って微かに動き、寒泉が耳にやかましく玉を戛(う)ち琴を鳴らすかのようであり、宮でも商でもないのに調べずして自然に調和し、絃でも桐でもないのに撫でずして自然に鳴る。春には一犁の田を耕して雨が足り、秋には万頃の稲を収めて雲が黄ばむ。飢えれば食べ、飽けば適う。あるいは酒に狂って歌い、あるいは月を詠って風を嘲り、あるいは雲に眠って石で口をすすぐ」)。
- 敦仁はもとより博雅の名があり、従効はかつて南漢主劉龑がその名の由来を取った意味を尋ねた。敦仁は詩をもって答えて言った、「伏羲が初めて卦を画き、蒼氏(蒼頡)が文字を製した。点画には偏傍があり、陰陽には尊卑がある。古の人は名を避け嫌うことはなかった。周の人が初めて諱を称え、初めの諱はまだひどいものではなかったが、後に慣習は次第に忌むことが多くなり、あるいは他の代(文字)を援いて易え、あるいは文字を変じて回避した。濫觴(起こり)から久しく蔓延し、心を傷ませることが日に日に激しくなった。孫休は子に名づけるにあたって呉国の(臣下の)尊王の意を(利用した)……(この間、原文に判読困難な脱落・欠字が多く、底本にも□(欠字)が多い)……梁もまた踵を継いでこれに倣ったが、時勢は異なる。旧事の跡をたどれば、(欠字)杰みずからその一、(欠字)闖はその二である。卑しいことよ、仉䁈(欠字)は名が陋しい。(欠字)義大なる唐が天下を有するに至り、武后は神器(帝位)を擁して私に(文字を)制したが、ついに古音に取るところがなかった。実に相い類するものであり、(欠字が多く続く)……武后が(欠字)史を作ったことは詳らかにし難い。唐の祚が傾き危うくなるに際し、劉龑は僣偽(帝位僭称)の心を懐いた。ああ、毒々しい蛟の輩は、飛龍の位を睥睨(横目でにらむ)した。龑と儼とは音は同じであっても、形体は大いに異なる。学に廃れたところがあることを恥じつつも、まだ広く行き渡ってはいない。お尋ねをいただいたことをかたじけなく思い、竒字を捨てず、雄博(雄大博識)の文を綴ることは難しいが、韓(愈)の知遇にひれ伏す思いで、私の聞いたところを誦じ、あえて下吏に申し述べる」と。従効はこの詩を得て大いに感嘆した。
- 数年ののち没した。子の琲は父の風があり、鳳山に隠れて「鳳山山人」と号した。陳洪進が朝廷に推薦したが、固く辞退して出仕しなかった。
史論
- 閩の末期、官がその人にふさわしくなく、任職する者はおおむね廉が少なく恥を知らなかった。取り立てて言うに足りない。劉乙は衣を払って鳳山に去り、詹敦仁は佛耳山に高く身を隠した。まことに世を遺れて独立した者たちである。『易』に「鴻(おおとり)は逵(大道)に漸(すす)む。その羽は儀(模範)とすべし」とあるが、この二君こそまさにこれに当たるであろう。