百悔経を編む
- 劉乙は字を子真といい、泉州の人である。通文年間、鳳閣舎人の官にあった。晋の使者盧損が来聘した際、康宗は乙を遣わしてこれを労った。まもなく官を棄てて鳳山に隠れ、詹敦仁と友となった。作った詩に「石を掃うに雲は帚に随い、山を耕せば鳥は人に傍う」の句がある。
- 敦仁はかつて子の琲に命じて乙を訪ねさせ、詩を贈ったが、今にその詩は伝えられている(詩に言う、「石を掃い山を耕す旧き子真、布衣草履みずから身に随う。石崖壁立するところに詩を題す、知るはこれ当年の鳳閣の人」)。
- 乙はかつて酔いに乗じて人と妓を争ったことがあり、酔いが覚めてから恥じ悔い、書籍を集めて酒によって失敗したことを編纂し、みずから戒めとし、題して「百悔経」と名づけた。それより以後、生涯にわたって酒を飲まなかった(何喬遠『閩書』に言う、「私(何喬遠)が『五代史』を読むに、晋の天福二年、閩王の昶が使いを遣わして朝貢し、高祖は散騎常侍の盧損を遣わして閩に入らせ、昶を王に封じた。王は継恭にこれを主らせ、中書舎人の劉乙を遣わして館で労わせた。乙は損の衣冠が偉然として立派で、供の者たちも甚だ盛んなのを見た。後日、道でこれに出会うと、(乙は)布衣・芒鞋であるばかりであった。損は人を遣わしてこれを謗り、『鳳閣舎人ともあろう者が、なんとひどく身分を偽っておられることか』と言った。乙は恥じ入り、手で顔を覆って走り去った。私(何喬遠)は心ひそかにこれを疑う。乙はもとより高潔な士であり、閩王が彼を遣わして晋の使者を労わせたのは、思うに彼を借りて(自国の)重みとし、礼を成そうとしたものであろう。(損の)立派な威儀に対して、(乙の)芒鞋・布衣は、まさに隠者の風致であった。恥じ入って手を覆い走り去ったというのは、必ずや損が昶を憎み、病と偽って(帰国したことを)訴え、その主君を悪く言う文を仕立て、欧陽(脩)がそれをそのまま用いたものであろう。そもそも損は上国の使者として閩に入ったのに、どうして供の者が前払いして先導することがなかろうか。必ずやその到着を待ってから前に出て会い、そして走り去ったのではないか」)。