王仁繢
- 王仁繢は福唐の人。若くして志操があった。太祖はその賢明さを聞いて大理評事の試任を命じたが、王仁繢は強藩に仕えることを恥じて固辞し、龍山に隠居して生涯を終えた。
楊廷式
- 楊廷式は字を欠く。泉州の人。唐末に明經で及第し、太子舍人に任じられた。黄巣の乱に際して黄浦村に避退し、清貧と節操で身を立てた。
- 太祖が威武軍を鎮めたときたびたび招いたが応じなかったので、人々はみな称えた。
翁郜(字は季長)
- 翁郜は字を季長、長安の人。唐の昭宗の朝に尚書左僕射・河西節度使にまで至った。
- 梁が唐を簒奪すると、二姓に仕えることを恥じた。父祖が閩に官職を得ていたためその地が辺鄙で乱を避けるに適すると知り、一家を連れて建陽に来て住み、のちに義寧の莒口に移った。
黄岳――学識と施し
- 黄岳は福州感德場の人。経典に広く通じ、とりわけ易の象数と暦数の学に深かった。唐末に鄉貢によって太學に入った。
- 黄巣が閩を侵すと、避難した人々は衣食を失った。黄岳は施しを好み、少しも厭う顔を見せなかったので、頼る者が市をなすほどであった。
黄岳――招聘を拒んでの入水
- 太祖が威武節度使となってその名を聞き、たびたび招いて属官にしようとしたが、力を尽くして辞退し就かなかった。
- まもなく太祖が王に封じられ、どうしても黄岳を起用しようとした。黄岳は拒みきれないと見て、淵に身を投げて死んだ。
- 妻の林氏は「夫が忠臣たりえたのに、妾だけが忠臣の妻たりえぬはずがあろうか」と言い、同じく淵に投じて後を追った。土地の人はその地に祠を立てて祀った。
- 一説には、黄岳が死んだとき父母・妻子・二人の弟・一匹の白犬までが水に赴いて死んだといい、また黄岳を徴召しに来た崇・舒・趙・田の四人も死んだという。
盧皓と林甲
- 盧皓と林甲は二人の隠士である。太祖が閩に王たるころ、二人は世を避けて釣りに遊び、福唐の小練山の山水を愛し、茅を刈って隠棲した。
- のちに両家は栄えて福州の名家となった。
李崇禮
- 李崇禮は唐(後唐)の莊宗の弟で、薛王に封じられた。
- 郭從謙の乱に際して名を隠して難を避け、延平鎮の山水を愛して留まり住んだ。坑口に庵を結び、袋の中の金を出し尽くして貧しい者に施した。
- 病が重くなったとき封誥を出して人に示したので、人々ははじめてその素性を知った。
蕭孔冲
- 蕭孔冲は建安の人。同光年間(923-926年)に進士に及第したが、仕官を好まず、連江縣の兊峯に入り、髪を剃って頭陀となった。志行は堅固で刻苦し、虎豹を伏せさせることができた。没後、邑の人が祀った。
廉若
- 廉若は建州建寧の人。妻の楊氏とともに縣の東に隠居し、郷里の人を教授し、行いと信義で称された。
柳崇(字は子高)
- 柳崇は字を子高、建陽の人。儒学で名を知られ、生涯布衣を着て処士と称した。
- 天德帝が建州に拠っていたとき、かねてその名を聞いて召し、沙縣丞に補そうとしたが、力を尽くして辞退し赴かなかった。
- のちに子たちが宋に仕え、法によって恩典が父に及ぶべきところ、柳崇は「奏請してわが志を奪ってはならぬ」と戒めた。まもなく没した。宋は累進して工部侍郎を追贈した。
- 子の宣・宜・置・宏・宷・密・察はいずれも顕官となった。
史論(王仁繢ら隠逸の士)
- 王仁繢・楊廷式・柳崇は徴召の書を強く辞退し、揺るぎなく身を潔くする道を全うした。黄岳は二度招聘を辞したが、夫婦して身を沈めるまでのことがあろうか。忠と清の両方を兼ね備えたというべきである。翁郜以下の人々は大空を飛ぶ鴻のような広い胸懐を抱き、鳳のように隠れる高潔な操を貫いた。その人柄は常人の情理では測りがたい、とする。
劉乙(字は子眞)
- 劉乙は字を子眞、泉州の人。通文年間に鳳閣舍人となった。晉の使者・盧損が来聘した際、康宗は劉乙を遣わして労わせた。
- のちに官を棄てて鳳山に隠れ、詹敦仁と友となった。その詩には「石を掃けば雲が箒に随い、山を耕せば鳥が人に寄り添う」の句がある。詹敦仁はかつて子の詹琲に劉乙を訪ねさせ、詩を贈らせた。それが今に伝わる。
- 劉乙はあるとき酔って人と妓を争い、覚めてから恥じ悔い、書籍のうち酒によって身を過った例を集めて編み、自戒として『百悔經』と題した。以後は生涯酒を飲まなかった。
詹敦仁(字は君澤)――隠棲と徴召の辞退
- 詹敦仁は字を君澤、固始の人。乱を避けて来て仙遊の植德山下に隠れた。
- 康宗に数百言の書を上ったところ、康宗は召して酒を賜り、留めて參軍事を決裁させようとした。詹敦仁は詩を作って辞退し、袍と笏を強いても受けず、その後は門を閉ざして出なかった。
- 清源節度使の留從效が再び招くと、小溪場の監に任じられることを求めた。着任すると場を県に昇格させるよう請い、まもなく王直道を後任に推挙して自らは佛耳山に隠棲し、「清隠」と号した。
詹敦仁――劉龑の名についての詩
- 詹敦仁はもとより博識で知られ、留從效はかつて南漢の主・劉龑がその名を取った意味を尋ねた。詹敦仁は詩をもって答えた。
- その詩は、伏羲が卦を画き蒼頡が字を作って以来、点画には偏旁があり陰陽が調和すべきものであり、古人は名を憚らなかったが周人から諱が始まり、当初は苛酷でなかったのが後世に忌避が増え、他字を当てたり文を変えて避けたりする習わしが広がって害が大きくなった、と述べる。ついで孫休が子の名を作って呉国が王の意を尊んだ例、梁がそれを踏襲した例などを挙げ、さらに大唐の世に武后が神器を握って私に文字を制したがどれも採るに足らず、古音がむしろ相通ずる、と論じ、武后の作った文字を並べる。そして史書は詳らかにしがたいと述べたうえで、唐の命運が傾いたとき劉龑が僭越を懐き、毒蛟の輩が飛龍の位を窺った、「龑」と「儼」は音は同じでも形体はまるで異なる、と結ぶ。末尾では、自分は学問を廃して恥じ入るばかりだが、問いを寄せられたのを光栄とし、奇字は博識な雄でも扱いがたい、韓愈に伏して文を綴る思いで、聞き知ったつたない知識を下吏に申し述べる、とへりくだる。
- 留從效は詩を得て大いに感服した。数年ののち詹敦仁は没した。
- 子の詹琲には父の風があり、鳳山に隠れて鳳山山人と号した。陳洪進が朝廷に推薦したが、固辞して赴かなかった。
史論(劉乙・詹敦仁)
- 閩の末期は官が人を得ず、職に就く者はおおむね廉恥に乏しく取るに足りない。そのなかで劉乙は衣を払って鳳山に去り、詹敦仁は高く佛耳山を踏んだ。まことに世を捨てて独り立つ者である。『易』に「鴻、逵に漸む、その羽もって儀と為すべし」とあるが、二人こそこれに当たる、とする。
陳乘
- 陳乘は仙遊の人。唐の乾寧のはじめに進士に及第し、秘書郎となった。黄巣の乱に際して郷里に退き、侍中の王延彬・徐寅・鄭良士らと詩を唱和した。閩の士人の多くが風雅の宗としてこれに帰した。
陳郁
- 陳郁も仙遊の人。若くして学に篤く群書を広く読み、書物を手放さなかった。
- 景宗に仕えて諫議大夫となり朝請に奉じたが、休暇で邸にいるときはいつも戸を閉ざして香を焚き経を誦し、機務に関与しなかったので、禍を免れることができた。年八十一で没した。
江為――詩人としての名声
- 江為は先祖が宋州の人で、乱を避けて建陽に移り、建州の人となった。
- 廬山の白鹿洞に遊んで処士の陳貺に二十年師事し、とりわけ詩に巧みで、詩人本来の風格を備えていた。
江為――投降の表と刑死
- 福州が乱れたとき、旧友で福州の属官を務めていた者が禍が及ぶのを恐れて逃亡しようとし、抜け道を通って江為を訪ねた。江為はその人のために南唐へ投ずる表を草した。
- その人が国境を出ないうちに辺境の吏に捕らえられ、袋の中から江為の書いた表章が見つかった。そこで江為も捕らえられ、逃亡者とともに械をはめられて刑場に送られた。
- 江為は刑に臨んでも言葉も顔色も乱れず、「嵇康は死ぬとき日影を顧みて琴を弾いた。私は詩を一篇賦せば足りる」と言い、筆を求めて詩を作って死んだ。聞く者は痛ましく思った。詩集一卷が世に伝わる。
陳致雍
- 陳致雍は莆田の人。学識広く文辞をよくし、典章故実にとくに通暁していた。
- 景宗に仕えて太常卿となり、南唐に入ってからは通礼で及第し、秘書監に任じられたが、まもなく致仕して家に帰った。
- 陳洪進が招いて掌書記とした。『晉安海物異名記』および『閩王列傳』(『閩王事迹』に作る本もある)、『五禮儀鑑』などの書を著した。好事家がさらにその礼を論じた諸篇を編んで『曲臺奏議』二十卷とした。
李相――王緒の遺孤を匿う
- 李相は壽州の人。若いころは奔放で、馬を走らせ屠殺や博打を好んだ。母の李媪の家はもともと豊かで、市中で酒を売っていた。
- 王緒がまだ挙兵する前、李媪から酒を掛買いしてたびたび代金を踏み倒し、さらに酔って酒屋を壊した。李相は怒って殴ろうとしたが、李媪は李相の足を踏んで「天下はまさに乱れようとしている。この男は壮士だ」と言った。そこで二人は刎頸の交わりを結んだ。
- 王緒が挙兵すると李相はその部下に属し、やがて従って閩に入った。前鋒の将が王緒を殺すと、李相はその遺孤の王建齊を山中に匿い、自分の末子と王建齊の名を入れ替えて呼ばせた。
- 三日後、軍中は果たして王建齊を捜索した。末子が「はい」と応じて、そのまま殺された。李相はついに王建齊とともに従軍し、閩縣に住んだ。王建齊はその後、数世にわたって李姓を名乗り続けた。
林安
- 林安は福清の人。母に仕えて至孝であった。母が死ぬと墓のかたわらに廬を結んだところ、石が自然に裂けて泉が湧いた。太祖はこれを不思議とし、その廬を寺として「湧泉」の名を賜った。
陳寅
- 陳寅は莆田の人。福建觀察使の陳巖の甥である。善を好み施しを楽しみ、人知れぬ徳行があった。
- 九十余歳になり、没する前日に百年の出来事を一つ一つ語ったが、みな的中した。土地の人の廟祀が絶えなかった。
史論(李相・林安・陳寅)
- 李相が遺孤を匿ったのは、程嬰といえどもこれに加えるものはない。林安は親に孝を尽くして泉を湧かせたのだから、純孝でなくてこうはならない。陳寅は慷慨として施しを好み、義俠の名に恥じない、とする。
石氏の二女
- 石氏の二女は福州永貞鎮の人。姉を月華、妹を雪英といい、国色の美貌をもち、書史にも通じていた。
- 太祖の時、處州の青巾賊が乱を起こして略奪しながら鎮に至った。二女は賊に遭って屈せず、水に投じて死んだ。その水のほとりにもと飛来石があったので、人はこれを「石八娘巖」と名づけた。
練寯――章仔鈞の妻として
- 練寯は章仔鈞の妻である。生まれつき髪が豊かで、沈着かつ端正剛毅、識見は人に勝り、終日みだりに言笑しなかった。
- 章仔鈞が練寯の言葉によって二人の校尉を許した経緯は、章仔鈞の伝にある。そのとき練寯は子たちに命じて二校に「早く去りなさい。市で処刑されてはならぬ」と告げさせ、金の腕輪を与えて送り出した。二校は遥かに拝して感泣し、天を仰いで「夫人の恩に報いなければ、この日輪にかけて」と誓い、そのまま南唐へ奔った。
練寯――建州の屠城を止める
- 久しくして章仔鈞が没し、練寯は建州城に住んでいた。建州が陥落したとき、その二校は実際に南唐軍の陣中におり、一人は行軍招討使(邊鎬とする説がある)、一人は先鋒橋道使(王建封とする説がある)であった。
- 二人は練夫人の再生の恩を思い、使者に金帛を持たせて練寯に贈り、白旗を授けて「我らはこの城を殲滅する。夫人は旗を門に立てられよ。すでに士卒には侵さぬよう戒めてある」と伝えた。
- 練寯は金帛を返し旗を突き返して言った。「あなたがたが恩に報いるといって、私の家だけを助けるのですか。それが義といえましょうか。城中の人は十万を下らず、みなが罪あるわけではありません。もし旧恩を思うなら、この城全体を救ってほしい。どうしても屠るというなら、私の家も皆と共に死に、独り生きはしません」。
- 二校はその言葉に感じてやめ、「夫人の仁は鬼を人に変える」と言い、ついに城を屠らなかった。
練寯――子孫と追封
- 練寯は後に累進して渤海郡賢德越國夫人に封じられた。子は十五人、孫は六十八人あり、みな顕貴に上った。
- 長子の章仁坦は南唐に仕えて檢校太傅・武都郡開國伯に至り、三男の章仁燧は南唐に仕えて檢校司徒・建州刺史に至り、とりわけ早くから栄達した。当時の人はこれを人を活かした報いだと言った。
余敬洪の妻・鄭氏
- 鄭氏は建州の人で、余敬洪の妻。余敬洪は建州の将であった。
- 南唐の軍が建州を下したとき、裨将の王建封が鄭氏を捕らえたが、美貌でありながら気位を保っているので手を出せず、刃で脅しても屈しなかった。
- そこで大将の査文徽に献じた。査文徽が納れようとすると、鄭氏は大いに罵って言った。「王師が罪を問うて討つのなら、節義を褒め称えて風化を励ますべきです。王司徒は行伍の出だから怪しむに足りませんが、君侯は国の上将でありながらこのざまですか。早く私を殺しなさい」。
- 査文徽は恥じ入り、急いでその家を尋ねて鄭氏を返した。
林廿五の妻・謝氏
- 謝氏は福州感德場に住む林廿五の妻である。龍啓元年(933年)に場が昇格して寧德縣となった。
- 私利をむさぼる者が桓門を建てようと謀り、林廿五の住居を没収し、その墓を平らげようとした。
- そのとき謝氏はやもめになったばかりであったが、幼子を背負って徒歩で長樂府に赴き、肺石の下に三日間座り込んで訴えを受理させた。その符が県に下り、家屋も墳墓も壊されずに済んだ。