十国春秋卷九十六 閩七 列傳 潘承祐
要約
潘承祐は晋安の人。はじめ呉に仕えて光州司法参軍となったが、郡の大獄をめぐる不満から官を棄てて閩に帰り、大理少卿に至った。天徳帝(王延政)が富沙王・鎮武節度使であった頃、度支判官に招かれ、景宗との対立に際してはたびたび極めて諫めたが聞かれず、甲兵を誇示する富沙王を諫めて「判官の肉を食らってもよい」と激怒されても屈せず、長跪して「不義でありながら生きるより、義を抱いて死ぬほうがましです」と答え、怒りを解かせた。
殷帝の称号を称するに及んで吏部尚書、まもなく同平章事となったが、寵臣楊思恭の専横に対し、兄弟相攻めの非、力役の重い弊、狭隘な国土に見合わぬ州県官吏の多さ、隣国との断絶など十事を上書し、官爵を削られて私邸に帰された。南唐の査文徽が建州を破ると招かれて衛尉少卿、のち鴻臚卿となり南方の事を委ねられ、陳誨・林仁肇・許文稹らを推薦して功をあげさせた。晩年は老病により礼部尚書をもって致仕し、洪州西山に隠れて没した。子の慎修は宋に入って翰林侍読学士となり、文集五巻を残した。
史論は、黄諷・林省鄒・葉翹・鄭元弼ら直言の臣が濁世にあって稀な人物であったこと、王倓・陳光逸・黄峻らが無実の罪に遭ったことを述べ、承祐の忠言が容れられなかったことこそ閩国滅亡の当然の帰結であったと評する。
現代語訳全文
十事の上奏と致仕
- 潘承祐は晋安の人である。はじめ呉に仕えて光州司法参軍となったが、郡の大獄を争ったことにより、思うようにならず、官を棄てて閩へ帰った。仕えて大理少卿に至った。
- 天徳帝(王延政)が富沙王であった時、鎮武節度使を領しており、承祐を招いて度支判官とした。
- この時、景宗と隙を構え、兵を治めて互いに攻め合っていた。承祐は極めて諫めたが聞き入れられなかった。
- ちょうど福州の使者が来た際、富沙王は甲兵を大いに閲兵してこれを誇示し、言葉遣いはますます悖った(傲慢になった)。承祐は長跪して切に諫めた。富沙王は怒って左右を顧み、「お前たちは私のために判官の肉を食らってもよいぞ」と言った。
- 承祐は「不義でありながら生きるより、義を抱いて死ぬほうがましです。事の勢いがこうである以上、早く死ぬことこそ幸いです」と言った。しばらくして怒りは解けた。
- 王が殷帝と称するに及んで、承祐を吏部尚書とし、まもなく同平章事を加えた。この時、寵臣の楊思恭が権をふるっており、承祐は再びこれと争い、また十事を上奏した。その大略に言う。
- 一に、兄弟が相い攻め合い、天理に逆らい傷つけていること。
- 二に、賦斂(税の取り立て)が煩雑重く、力役に節度がないこと。
- 三に、民を徴発して兵とし、旅にあって愁い怨んでいること。
- 四に、楊思恭が人の衣食を奪い、怨みを上(君主)に帰させても、群臣があえて言わないこと。
- 五に、疆土は狭隘なのに州県を多く置き、吏を増やして民を苦しめていること。
- 六に、道を開き糧を裹んで臨汀を攻めようとしているが、金陵・銭塘(南唐・呉越)が虚に乗じて襲ってくることを憂えていないこと。
- 七に、高い資産を持つ戸を括り出し、財が多い者は官に補せられ、負債を逋(の)がれる者は刑を被ること。
- 八に、延平の諸々の渡し場で菜・魚・米に税を課し、得る利は僅かなのに怨みを集めることが甚だ大きいこと。
- 九に、唐・呉越と隣り合っているのに、即位以来一度も使者を通わせていないこと。
- 十に、宮室・台榭の飾りたてに度を過ごしていること。
- 書を上ったが、承祐の官爵を削られ、私邸に帰るよう強いられた。
- 唐の査文徽が建州を破ると、礼をもって承祐を招いた。唐の元宗は承祐を衛尉少卿に任じ、鴻臚卿に遷し、南方の事を委ねた。人物の登用・黜陟や郡県の制置は、しばしばその言を用いた。
- 承祐は陳誨・林仁肇・許文稹・陳徳誠・鄭彦華を推薦し、いずれも功績を著した。
- 老病により骸骨を乞い、礼部尚書をもって致仕し、洪州西山に隠れて没した。
- 子の慎修は風度が穏やかで学識豊か、文史に博く通じ、宋に入って翰林侍読学士となり、文集五巻がある。
史論
- 黄諷は激しく直言して屈せず、林省鄒は孤高の憤りをはばかることなく示し、葉翹は極めて諫めて黜けられ、鄭元弼は激烈にして仁を成した。いずれも濁世にあってまれに見る人物である。
- 王倓は剛直によって、陳光逸は愚直によって、ともに淫刑に遭い、無実の罪をこうむった。黄峻が憂いのうちに死んだのを見れば、これは酷いことであった。
- 潘承祐は十の弊害をつぶさに陳べ、堂々と直言し、仕えた主に真心を尽くしたのに、忠でありながら咎められた。王氏(閩国)がついにその祚を永く保てなかったのも、当然のことである。