翁承賛
- 翁承賛は字を文堯といい、福唐の人である。父の巨隅は栄王府諮議参軍であった。承賛は唐の乾寧三年の進士に挙げられ、宏詞科に擢んでられ、京兆府参軍に任じ、たびたび官を経て右拾遺戸部員外郎に至った。天祐元年、詔を受けて太祖を瑯琊王に冊封し、金紫を賜ってこれを行い、その居処の名号を「文秀亭」「光賢閣」「昼錦堂」と改めた。黄滔は詩を作ってこれを栄えあるものとした(「建水閩山に故事無し、長卿・厳助はこれ前身なり」の句がある)。
- すでに梁に仕えて諫議大夫となり、開平三年、再び閩王の冊礼副使となると、滔はまた詩を贈った。まもなく右諫議大夫福建塩鉄副使を守り、左散騎常侍御史大夫を加えられた。承賛はすでに太祖に身を寄せ、太祖はこれを殊に厚く待遇し、ついに宰相とした。承賛は太祖に四門学を建てて閩の秀才を教育することを勧め、自ら「狎鷗翁」と号した。没して建安の新豊郷に葬られた。弟の承裕は光化中の進士に挙げられ、子の鑑・載・希愈は宋の時にみな仕官した。
史論
- 論じていう。陳・黄・徐・翁はみな閩の産である。嶠は老成をもって邦の司直となり、滔は威鳳の才を負い、寅は雕龍の質をほしいままにし、それぞれ轡を分けて競い、いずれも恥じるところがなかったといえる。承賛は栄誉を郷里に施し、学を興し文を貴んだ、それもまた大いに閩に功があったものである。