十国春秋卷九十五 閩六 列傳 黄滔

黄滔

  • 黄滔は字を文江といい、泉州莆田の人である(一に候官の人という)。唐の乾寧二年、崔凝が貢挙を知り、及第の進士として張貽憲ら二十五人を得たが、昭宗は武徳殿で覆試を行い、黜落した者が甚だ多かった中で、滔は留められた。光化中に四門博士を除せられ、天復元年、太祖の辟に応じ監察御史裏行として威武軍節度推官を充てられた。まもなく銭塘に使いして羅隠と大いに意気投合した。
  • 梁の時、強藩の多くが僣位して帝を称したが、太祖は全閩を有しながらもその身を終えるまで節将であり続けたのは、滔の規正に力があったのである。中州の名士で乱を避け閩に来た者、韓偓・李洵ら数十人はみな滔を頼りとした。滔の文章は豊かで蔚(うつくし)く典則があり、詩は清らかで潤いがあり、貞元・長慶の風があった。「馬嵬」「館娃」「景陽水殿」などの賦は雄新で雋永と称され当代の絶調であった。文集十五巻、『泉山秀句集』三十巻があり、当時の金石の誌銘や国中の大きな著作の多くは滔が起草した(滔は律賦をよくし、たとえば「明皇回駕径馬嵬賦」に「日は慘(くら)く風は悲しく、玉顔の死処に到る。花は愁い霧は泣き、朱臉の啼痕を認む」といい、「褒雲万畳、断腸新たに啼猿より出づ、秦樹千層、比翼は飛鳥に如かず」という。風調は徐寅に劣らない)。