十国春秋卷九十三 閩四 列傳 陳洪進

要約

陳洪進は字を済川といい、仙遊の楓亭の人。幼くして侠気と節義があり書と兵家の言を習い、汀州攻めで真っ先に城に登って副兵馬使となった。留従効に従って黄紹頗誅殺に功を立て、天徳帝から統軍使に任じられて張漢思と兵権を分掌した。

従効の没後、幼い後継紹鎡に代わって漢思を推して留後とし自ら副使となったが、漢思は老いて政務を執れず軍務は洪進が決するようになり、対立を深めた。翌年、漢思が宴席に甲兵を伏せて洪進を害しようとした矢先、地が大いに震えて座が乱れたため発覚を免れたが、以後互いに警戒を強めた。洪進はついに二人の子文顕・文顥を従えて普段着で府中に入り、門を閉ざして「衆情には逆らえない、印を授けるべきだ」と迫って漢思から印綬を奪い取り、別荘に遷して幽閉した。使者を遣わして江南に指図を請い、南唐の追認を得て清源軍節度泉南等州観察使となった。宋が沢潞を平らげ揚州を下し荊湖を取ると大いに恐れて牙将魏仁洛を間道で遣わし款を通じ、乾徳二年には清源軍を平海軍と改められて節度使・検校太傅に任じられ、「推誠順化功臣」の号と印を賜った。

毎年の朝貢で朝廷が民から過重に取り立てることを憂い、資産百万以上の民を協律・奉礼郎に任じて丁役を免除する工夫もした。江南平定・呉越入朝の後は自らも入朝し、太祖崩御の報に接して哀を発し、太宗からは厚遇を受けて食邑を増され、子の文顕・文顗・文頊もみな刺史・団練使に任じられた。太平興国三年、報恩のためとして漳・泉二州を宋に献上する上表を行い、太宗はこれを嘉して受け入れた。県十四、戸十五万一千九百七十八、兵一万八千七百二十七を挙げての納土であった。洪進は武寧軍節度使同平章事に任じられて汴京に留められ、のち杞国公・岐国公に進封され、致仕を願い出て許された後に病没した。享年七十二、忠順と諡された。

子の文顕・文顥・文顗・文頊はみな宋の官職を歴任し、陳応功・陳斉鶻・陳仁璧・徐昌嗣ら洪進の周辺には早くから宋への帰順を勧めた人物が多く、劉昌言・徐熙ら文人も洪進のもとから輩出した。史論は、朱文進が王氏を誅殺し尽くしてなお帝位に居座ったのに対し、従効・洪進が漳泉を保って再び両姓に伝えたことを、人の謀と時運の巡り合わせと評する。

現代語訳全文

出自と留後の奪取

  • 陳洪進は字を済川といい、その先祖はもと臨淮の人であったが、その後泉州に遷り、仙遊県の楓亭に住み、そのまま仙遊の人となった。幼くして侠気の節義があり、頗る書を読み兵家の言を習った。成長すると武勇と兵籍に隷し、汀州を攻めるにあたって真っ先に城に登り、補われて副兵馬使となった。留従効に従って黄紹頗を殺し、その首を建州に送った。天徳帝は彼を本州の馬歩行軍都校とし、まもなくまた統軍使とし、副使の張漢思と共に兵権を領させ、しばしば戦功を立てた。
  • 従効が没すると、少子の紹鎡は留務を執ること月余り、洪進は漢思を推して留後とし、自ら副使となった(一に四門指揮使に作る)。時に宋の建隆三年であった。漢思は年老いて政務を執ることができず、軍務はすべて洪進が決するようになった。漢思の諸子はみな牙将となっており、内心不平を抱き、ひそかに洪進を除こうとする気持ちがあった。
  • 翌年夏四月、漢思は将吏を大いに饗応し、内に甲兵を伏せて洪進を害しようとした。酒が数巡したとき、地が突然大いに震え棟木が今にも傾こうとした。座に着いていた者たちは身を保つことができなかった。共謀した者がこれを洪進に告げたため、洪進はすぐに立ち去り、衆は驚き恐れて散った。漢思は事が成らず、洪進が先に手を打つのを恐れて、常に兵を厳重にして備えた。洪進の子の文顕・文顥はみな指揮使であったが、部下を率いて漢思を撃とうとしたところ、洪進はこれを許さなかった。
  • ある日、洪進は袖に銀の鐺(酒器)を入れ、二人の子を従えて普段着で安らかな歩調で府中に入ると、直兵数百人がみなこれを叱って退けた。漢思はちょうど内斎にいたが、洪進はすぐにその門を閉ざし、人に門を叩かせて漢思に「郡中の軍吏がお願いしております。洪進に留務を執らせることを願う衆情には逆らえません、印を授けるべきです」と言わせた。漢思は恐れ惑い、なす術もなく、すぐに門の隙間から出て印をこれに与えた。洪進はその日のうちに漢思を別荘に遷し、使者を遣わして江南に指図を請い、洪進を清源軍節度泉南等州観察使とした。
  • 時に宋は沢潞を平らげ揚州を下し荊湖を取ったため、洪進は大いに恐れ、牙将の魏仁洛を遣わして間道を通り上表して款を納め、白金千両・乳香・茶葉をみな万を数えるほど貢いだ。太祖は使者を遣わして撫諭させ、あわせてその事を江南に詔した。江南の後主はこれに従い聴命した。

帰宋と納土

  • こうして乾徳二年、宋は清源軍を平海軍と改め、洪進に節度泉漳等州観察使を授け、検校太傅とし、「推誠順化功臣」の号を賜り、印を鋳造してこれを賜り、文顕を平海軍節度副使とし、文顕(原文のまま。文顕が重複しているが底本のまま)を漳州刺史とした。この年の夏、洪進は父母の喪に服したが、まもなく喪に服したまま軍府の事を執り行った。
  • 洪進は毎年貢を修めるにあたり、朝廷は民から厚く取り立てることが多かったため、資産百万以上の民には試協律・奉礼郎とならせ、その丁役を免除させた。
  • 江南が平定され、呉越の忠懿王が宋に朝すると、洪進は自ら安んじられず、子を遣わして入貢させた。太祖はこれによって詔を下して彼を召した。ついに入朝する途中、太祖が崩御したことを聞き、鎮に帰って哀を発した。太宗が即位すると検校太師を加えられた。太平興国三年四月、京師に朝すると礼遇は厚く手厚かった。
  • また食邑を増し、その子の文顕を団練使とし、文顗・文頊をともに刺史とした。洪進はそこで上表して「臣は遠く海嶠を辞して天墀(宮廷)に参内し、咫尺の御顔を親しく拝することができ、たびたび駢蕃(重なる恩沢)を被りました。六飛(天子の車駕)の御幸には毎回属車の塵にお供しました。三殿の宴では大罇(大盃)の味をたびたび賜り、旬日のうちに雨露(恩沢)がしきりに降り注ぎ、童男(幼い子)にいたるまで殊なる褒賞を蒙りました。この恩栄はこれほどのものです。報恩の道はどうすればよいのでしょうか。臣の治める漳・泉の両郡を有司に献上したいと存じます」と言った。太宗はこれを嘉して受け入れた。県は十四、戸は十五万一千九百七十八、兵は一万八千七百二十七であった。こうして洪進を武寧軍節度使同平章事に任じ、汴京に留めて朝請させ、諸子にはみな近郡を授け手厚く賜物を与えた。後に杞国公に封じられ、さらに岐国公に進封された。
  • 洪進は年老い富貴すでに極まったので、致仕を求める上言をし、優詔をもって朝請を免ぜられた。しばらくして病没した。享年七十二、中書令を贈られ、諡を忠順といった。
  • 洪進は泉州にいたとき、あるとき書を読んでいると、青い鶴が内斎に飛んできて、喉を洪進に向けて鳴いた。洪進がこれを見ると、喉に魚の骨が刺さっており、すぐに手でこれを取り出したところ、魚はまだ生きていた。鶴は斎中に馴れ数日してから去っていった。人々はこれを不思議なこととした。
  • 洪進の弟の銛は泉州都指揮使となり、開宝中に漳州刺史を官とした。

文顕――洪進の子

  • 文顕は字を仲達といい、泉州馬歩軍都軍使・右軍押衙を歴任した。宋は彼を平海節度副使に任じ、たびたび検校太保を加えた。洪進が宋に朝すると、通州団練使を授けられ、泉州の知事となった。まもなく代わって帰り、また青・斉・廬・寿・西京・水南北・陝州四州の都巡検使となった。文顕は諸弟と不仲であり、咸平の初め言者に弾劾され、詔をもって戒諭された。病により通許鎮都監に改められ、そこで没した。

文顥――洪進の子

  • 文顥ははじめ泉州衙内都指揮使となり、間もなく漳州の知事を権り、宋は彼を漳州刺史に任じた。数年ののち泉州に還ることを求め、行軍司馬の職に就いた。洪進が宋に朝すると房州刺史を授けられ、康州に改められ、端拱の初め同州の知事として出、咸平の初め耀州の知事となり、徐州に徙された。刑を用いて誤って人を罪に落とした咎で官を貶められたが、まもなく洪進が土地を納めた功によって再び康州刺史に遷った。祥符の東封のとき濮州の知事を命じられ、馳道が出るところで供給を頗る勤めたため、詔をもって褒められ、衡州に改められた。代わって帰ると、老いと病により致仕を請い、没した。

文顗――洪進の子

  • 文顗ははじめ泉州衙内都指揮使となり、漳州の知事となった。宋の初め滁州刺史に抜擢され、まもなく京師に召し帰された。景徳中に光州に改められ、久しくして和州団練使を領した。数州の軍を歴任したが、至るところで称すべき能はなかった。

文頊――洪進の子(文顕の子)

  • 文頊は頗る書を知り絵をよくした。文顕の子である。洪進が泉州にいたとき、ある人相見が「一門の受ける禄はまさに万石に達するだろう」と言った。時に洪進とその三人の子はすでにみな州郡を領していたが、文頊がちょうど生まれたので、洪進はその言葉を実現させようと彼を自分の子として引き取り、名を与えて他の子たちと同列に並ばせた。文頊は衙内都監使を歴任し、宋は彼に順州刺史を領させ、朝廷に帰って通州刺史となり、舒州に改められて没した。

陳應功――洪進に納土を勧めた人物

  • 陳応功は莆田の人で、弱冠にして忠義をもって自らを任じた。宋の太平興国の初め、陳洪進がなお漳・泉に拠っていたころ、応功は洪進のもとに赴き、古今の天下分合の由来を条陳し、天命人心の帰するところの意味を詳しく述べた。洪進は耳を傾けてこれを聴き、ついにその年、宋に土地を納めた。游洋鎮で反乱が起こると、応功は軍前に赴いて先鋒となることを請うたが、ついにそこで殺された。

陳齊鶻――洪進に納土を勧めた人物

  • 陳斉鶻は莆田の人で、陳洪進に仕えて指揮使となり、常に洪進に誠を尽くし土地を納めて忠孝を両全させることを勧めた。後に洪進は宋に帰したが、斉鶻はこれに力があった。

陳仁璧――洪進に仕えた人物

  • 陳仁璧も莆田の人である。陳洪進に仕えて泉州別駕となった。洪進がすでに土地を納めると、豪猾な者で険阻を恃んで乱を起こす者があり、仁璧は徒歩で転運使の楊克巽に謁して策を画してこれを平定した。宋は仁璧を改めて陽翟主簿とした。

劉昌言――洪進に仕えた文人

  • 劉昌言は字を禹謨といい、泉州南安の人である。七歳にして文を作ることができ、辞藻は華麗であった。陳洪進は彼を功曹参軍に辟した。洪進が子の文顕を汴京に入貢させたとき、昌言を偕行させ、宋の太祖は自らこれをねぎらった。太宗の時、洪進が朝廷に帰ると、召して「洪進の表を見ると、命を委ねて心を尽くしたのは、卿の潤色によるものではないか」と言った。洪進が徐州に移鎮すると、また昌言を推官に辟した。後に宋の進士に挙げられ、審官院を判すること百日に満たずして枢密副使となり、官は工部侍郎に累進した。咸平二年に卒し、尚書を贈られた。文集三十巻がある(太宗の時、ある人が昌言は閩の言葉に慣れており、奏対で通じ難いのではと言ったが、太宗は怒って「私は自分でよく分かる」と言った。その眷顧はこのようであった。昌言はかつて落第の詩を作って「惟だ夜来の胡蝶の夢のみ有り、翩翩として刺桐の花に飛び入る」と詠んだ。人々はみなこれを称えた)。

徐熙――洪進に仕えた文人

  • 徐熙は字を大雅といい、南安の人である。父の居譲は陳洪進に従って清渓の令となった。洪進は熙の文才を珍重し、弟の娘をこれに嫁がせ、府の役に就かせようとしたが、辟しても就かず、『楚雁賦』を著してその志を示した。まもなく牋奏を掌ることに辟された。洪進が宋に帰すと、熙は進士挙に応じ、官は越州通判に終わった。熙は学を好み談論に優れ、筆札に精しかったが、後に狷躁(気短で騒がしいこと)を理由に職を罷められ、憤り恨んで没した。常に『三酌酸文』を撰し、世に精絶と称された。その一部にいう、「渭川の凝碧、早に釣月の流を抛つ、高嶺の排青、逐わず眠雲の客」、また「年年落第、春風に徒に泣く遷鶯の処、処処羈遊、夜雨に空しく悲しむ断鴈」と。

徐昌嗣――洪進の納土を主導した人物

  • 徐昌嗣は莆田の人で、明経により秘書郎を授けられた。陳洪進が彼を掌書記に辟し、真っ先に土地を納めることを勧めた。洪進はこれを害しようとしたが、昌嗣はひそかに汴京に逃げた。江南が平定されると、洪進はようやくその忠を悟り、そこでその弟の昌図に陳仁愿とともに表を奉じて宋に帰るよう命じた。

史論

  • 論じていう。朱文進が王氏を誅殺し尽くし、老いも若きも遺すことなく殺しても、なおも平然と神器(帝位)に据わっていたのに対し、従効はわずかな牙校の身でありながら賊党を平らげ、漳・泉を領有するに至り、洪進の納土に至って再び両姓に伝わった。人の謀(はかりごと)とはいえ、また時運の巡り合わせでもあろうか。今に至るまで永春の従効の旧居を伝え、その地に留変という名の者がいるというのも、その遺風がなお消えていないゆえであろうか。