十国春秋十國春秋卷九十一 閩二 嗣王延翰・惠宗鏻(延鈞)・康宗繼鵬(昶)
閩の太祖王審知の後を継いだ三代、嗣王延翰・惠宗鏻(延鈞)・康宗繼鵬(昶)の巻。延翰は大閩国王を自称したが驕奢のため一年余りで弟の延鈞・延禀に弑された。延鈞は延禀を討って皇帝に即位し、国号を大閩と定めたが、道術と土木に耽って子の継鵬に弑された。継鵬もまた猜疑と誅殺を重ね、拱宸・控鶴の二都の乱で殺された。三代いずれも非業の死を遂げている。
年表(22件)
- 同光四年926年太祖の死後に威武留後を自称していた延翰が唐から威武軍節度使に任じられる
- 同光四年926年十月、大閩国王を自称し、宮殿を建て百官を置いて天子の制に擬する
- 同光四年926年十二月、弟の延鈞と延禀に福州を襲われ、紫宸門の外で斬られる
- 同光四年926年延禀に推されて延鈞が威武留後となる
- 天成二年927年唐の明宗から本道節度使・守中書令を授けられ、瑯琊王に封じられる
- 天成三年928年唐から閩王に進封され、民二万人を得度させて田を三等に分ける
- 天成四年929年王延禀が病と称して退き、子の継雄が建州刺史となる
- 長興元年930年太祖以来の元従の兵を拱宸・控鶴の二都に編成する
- 長興二年931年福州を襲った王延禀・継雄父子を破り、延禀を市で斬る
- 長興二年931年陳守元の託宣に従って継鵬に軍府を代行させ、位を譲って道籙を受ける
- 長興三年932年三月に復位し、称帝を謀って唐への朝貢を絶つ
- 龍啓元年933年皇帝に即位して国号を大閩とし、改元して名を鏻と改める
- 龍啓二年934年呉の蔣延徽に建州を囲まれるが、延徽の召還後に追撃して破る
- 永和元年935年大赦して改元し、寵愛する陳金鳳を皇后に立てる
- 永和元年935年十月、子の継鵬と李倣に宮を襲われて弑され、惠宗と諡される
- 永和元年935年継鵬が即位して名を昶と改め、李春鷰を賢妃に立てる
- 永和元年935年十一月、林延皓に衛士を伏せさせて李倣を捕らえ斬る
- 通文元年936年改元して賢妃李氏を皇后に立て、皇太后を太皇太后と尊ぶ
- 通文二年937年紫微宮を造り、官を売って重税を課し、諸州に人の隠し事を探らせる
- 通文三年938年晋から閩国王に封じられるが、帝号を襲っているとして冊命を辞退する
- 通文四年939年巫者林興の託宣により叔父の延武・延望とその五子を殺す
- 通文四年939年閏月、連重遇と朱文進の乱で福州を逃れ、陀荘で縊り殺される
嗣王世家・出自と継承
- 嗣王は名を延翰、字を子逸といい、太祖(王審知)の長子である。太祖が薨じると延翰は威武留後を自称した。
- 汀州の民・陳本が三万を集めて汀州を囲んだので、延翰は右軍都監の柳邕らに二万の兵を与えて討たせ、まもなく陳本は邕らに斬られた。
- 延翰は長身で色白、玉のように美しく、読書を好んで経史に通じていた。
嗣王世家・大閩国王を称する
- 同光四年(926年)二月、唐の荘宗が延翰の権知軍府事の奏上を得、三月辛酉、延翰を威武軍節度使に任じた。まもなく荘宗が弑され、明宗が天成と改元した。五月甲戌、同平章事を加えた。
- 十月、延翰は司馬遷『史記』の閩越王無諸伝を将吏に示し、「閩は古来の王国だ。今わしが王を称さずして何を待とう」と言った。そこで軍府の将吏が勧進の書を上げ、己丑に大閩国王を自称した。宮殿を建て百官を置き、威儀も文物もすべて天子の制に擬した。臣下は「殿下」と称し、領内に赦を行い、父の忠懿王を昭武王と追崇し、延平鎮を永平と改めた。ただし唐の正朔はなお奉じた。
嗣王世家・驕奢と弑逆
- 延翰はこれ以後、驕り高ぶって淫らで奢侈に流れ、城の西の西湖にまたがって十余里の建物を築き「水晶宮」と号した。後宮を連れて遊宴するたび、子城から複道を通って出た。
- また残忍で兄弟を蔑ろにし、位を継いで一か月余りで弟の延鈞を泉州刺史として出した。建州刺史の延禀はもと太祖の養子で、平素から延翰と折り合いが悪かった。
- 当時、延翰は民間の娘を多く取って後宮に入れ、選抜をやめなかった。延鈞が極諫の上書をしたことで隙が生じ、延禀も選抜の件で無礼な書を送ったので、延翰の怒りはいっそう激しくなった。
- 十二月、延禀は延鈞と兵を合わせて福州を襲った。延禀が流れに乗って先に到着し、福州指揮使の陳陶が兵を率いて防いだが敗れ、陶は自殺した。その夜、延禀は壮士百余人を率いて西門に迫り、梯子で乗り越えて門番を捕らえ、武器庫を開いて武具を取り、寝所の門にまで至った。延翰は驚いて別室に隠れた。
- 辛卯の朝、延禀は延翰を捕らえてその罪悪を暴き、さらに「延翰は妃の崔氏とともに先王を弑した」と称し、官吏と民に告げたうえで紫宸門の外で斬った。
惠宗本紀・即位
- 惠宗は名を鏻、初めの名を延鈞といい、太祖の次子である。
- 延禀が福州を襲ったとき、嗣王を弑した当日にようやく延鈞が到着した。延禀は門を開いて迎え入れ、自分は養子だからとして延鈞を威武留後に推した。
天成二年(927年)
- 正月戊辰、延禀が建州へ帰るのを延鈞が郊外まで見送った。別れぎわ延禀は「よく先王の志を継ぎ、この老兄をもう一度下らせるような手間をかけさせるな」と言った。延鈞はこれを根に持ち、へりくだって丁重に謝したが顔色を変えた。
- 五月癸丑、唐の明宗は延鈞を本道節度使・守中書令とし、瑯琊王に封じた。冊文は、延鈞が北辰を拱く志と南を図る巨翼の力を持ち、刺史としての名声と八龍のごとき家門の誉れを兼ね、印綬を帯びるや戦乱に従い、兄弟の間に恵みを施したことは晋の重耳の賢に、璧を得た徴は楚の共王の故事にたとえられるとし、心は白日に傾き義は浮雲を憎み、建溪の誓いは黄河の帯のごとく、閩嶺の砥礪は山嶽と等しく、父祖の風を継いで臣節はいよいよ堅いとして、牙璋を高く建て玉帳を開き、油幢と瑞節を賜り、寵は阿衡に冠たり、師として敬いを表し封戸を増すと述べ、前の官のまま起復雲麾将軍・右金吾衛大将軍(外置同正員)・検校太師・守中書令・福州大都督府長史・充威武軍節度福建管内観察処置兼三司発運等使・瑯琊王に封ずるとした。
- 十一月、犀・香薬・海産物などを唐に貢いだ。
天成三年(928年)
- 七月戊辰、唐は吏部郎中の裴羽、右散騎常侍の陸崇を遣わし、王を閩王に進封した。
- 十二月、民二万人を得度させて僧とした。これにより閩の地には僧が多くなった。王は田地を測量して三等に分け、肥沃な上等地は僧道に与え、次を土着の民に、その次を流入者に与えた。徴税の方法はおおむね唐の両税法に倣ったが、税率はより重かった。
- このとき侯官の烏山に長さ六、七丈、黄金のような色の大蛇が現れた。王は土を運んで穴を塞がせ、仏殿を建てて鎮めとした。
天成四年(929年)
- 十月戊戌、謝恩として銀器六千五百両・金器百両・錦綺羅三千疋を唐に進め、あわせて犀角・象牙・玳瑁・真珠・龍脳・笏・扇・白㲲・紅㲲・香薬などを贈った。
- 十二月、奉国節度使・知建州の王延禀が病と称して郷里の私邸に退き、唐に願い出て建州を子の継雄に授けた。庚子、唐は詔して継雄を建州刺史とした。
長興元年(930年)
- 二月、唐が長興と改元した。
- 六月癸巳朔、日食。
- 十月、王は使者を送って唐の郊祀の完了を賀し、白金七千両と蕉牙・香薬・金器百両を贈った。
- このとき太祖以来の元従の兵を拱宸・控鶴の二都とした。
長興二年(931年)
- 四月、王延禀は王が病と聞き、次子の継昇を知建州留後として、建州刺史の継雄とともに水軍を率いて福州を襲った。癸卯、延禀が西門を撃ち、継雄が東門を攻めた。王は甥の楼船指揮使・仁達を送って南台江で防がせた。仁達は舟中に兵を伏せて偽って降伏し、継雄が舟に上がって慰撫したところを機を捉えて斬り、首を西門に梟した。延禀はちょうど火を放って城を攻めていたが、これを見て慟哭した。仁達が兵を出して撃つと延禀の軍は潰え、側近が斛に延禀を載せて逃げた。甲辰、追撃して捕らえた。
- 王が延禀に会って「果たして老兄にもう一度下っていただく手間をかけましたな」と言うと、延禀は恥じて答えられなかった。王は別室に幽閉し、使者を建州に送って一党を招撫させたが、一党は使者を殺し、継昇とその弟の継倫を奉じて呉越に亡命した。
- 五月、延禀を市で斬り、姓名を周彦琛に戻させた。弟の都教練使・延政を建州に遣わして官吏と民を慰撫させた。
- 六月、宝皇宮を造り、道士の陳守元を宮主とした。これより先、福州には王霸の壇と煉丹の井があり、壇の傍らの皂莢の木は久しく枯れていたが、ある朝突然に枝葉を生じ、井の中からは白い亀が浮かび出た。折しも地を掘って「王霸の裔孫」の文がある石銘が出たので、王は自分に応ずる瑞だと考え、壇の脇に宮を建てて土木の贅を極めた。巫者の徐彦朴・盛韜も守元とともに左道を用いて取り入った。
- 七月、唐は故閩越王の無諸を富義王に封じた。王の請願によるものである。
- 十二月、陳守元が宝皇の託宣と称し、「王が位を避けて道を受ければ、六十年のあいだ天子となれる」と告げた。丙子、王は長子の威武節度副使・継鵬に軍府の事を代行させ、位を譲って道籙を受け、道名を元錫とした。
長興三年(932年)
- 三月甲辰、王が復位した。
- 六月、王は神仙の術を深く信じ、陳守元に「六十年の天子の後はどうなるのか」と宝皇に問わせた。守元は「六十年の後は大羅の仙主となる」と宝皇の言葉を伝え、徐彦らも「北廟の崇順王がつねに宝皇に会っている」と付会して同じことを言った。王はますます自負し、初めて称帝を謀った。唐に上表して、楚王の馬殷と呉越王の銭鏐がいずれも尚書令であったが既に亡くなったので自分に尚書令を授けよと求めたが、唐は返答しなかった。そこで朝貢を絶った。
龍啓元年(933年)
- 正月、黄龍が真封の邸に現れたので、王はその邸を龍躍宮と改称した。また東華宮を造り、工を尽くし麗を極め、宮中で工事に従う者は一万人に及んだ。
- ついで宝皇宮に詣でて冊を受け、儀衛を整えて府に入り、皇帝に即位した。国号を大閩とし、大赦した。龍啓と改元し、名を鏻と改めた。父祖を追尊して五廟を立て、高蓋山を西嶽に封じた。
- 僚属の李敏を左僕射・門下侍郎、子で節度副使の継鵬を右僕射・中書侍郎・同平章事とし、側近の呉朂を枢密使とした。帝は初め尊称を全部は用いず「閩国皇」と称そうとしたが、翰林学士の周維岳が「陛下が国皇と称されるなら、臣もただ翰林学生と称するにとどめましょう」と進言したのでやめた。
- また即位のとき、帝は袞冕を着けるとぼんやりして自分がわからなくなり、久しくして正気に戻った。僧三百万人への施飯と経典二百蔵の書写を約したところ、ようやく落ち着いた。
- この月、唐の冊礼使の裴傑と程侃がちょうど海門に至った。帝は裴傑を如京使としたが、程侃は北へ帰ることを強く求めたので許さなかった。国は小さく地は辺境なので、常に四隣に慎重に仕え、そのおかげで領内はかなり安定していた。
- 四月、継鵬を福王に封じ、宝皇宮使に充てた。
- 五月、福州に地震。帝は位を避けて修道し、福王継鵬に万機を総べさせた。もと昭武帝(審知)の府舎はどれも粗末だったが、ここに至って大いに宮殿を造り、費用は計り知れなかった。
- 七月戊子、帝が復位し、中軍使の薛文傑を国計使とした。文傑は苛斂誅求で帝に取り入った。建州の土豪・呉光が入朝したとき、文傑はその財に目をつけて罪を求めて処断しようとしたので、光は怨んで一万の衆を率いて呉に奔った。
- 九月、帝の甥の継図が謀反して誅された。この月、枢密使の呉朂を殺した。
- 十一月、魯国太夫人の黄氏を皇太后に尊んだ。
- 十二月、福州を長楽府とし、閩県を長楽県、永貞鎮を永貞県、感徳場を寧徳県、帰化場を徳化県、大同場を同安県、桃林場を桃林県に改め、また侯官県を閩県、旧長楽県を侯官県と改めた。甥の親従都指揮使・仁達を一族もろとも誅した。
- この年、呉光が呉に兵を請い、呉の信州刺史・蔣延徽は朝命を待たずに兵を率いて光と合流し建州を攻めた。帝は使者を呉越に送って救援を求めた。
龍啓二年(934年)
- 正月、上元節に大酺殿に出御し、弘文館直学士の王倜らを召して観灯と宴を賜った。
- この月、呉の蔣延徽が浦城で閩軍を破り、建州を包囲した。帝は土軍使の張彦柔と従弟の驃騎大将軍・延宗に一万の兵を与えて救わせたが、延宗の軍は途中で兵卒が進もうとせず、薛文傑を切り刻んで食わせろと要求した。帝は急いで使者を送って文傑を赦そうとしたが間に合わなかった。
- 延徽は建州を落としかけたが、徐知誥が、延徽が臨川王の楊濛と親しいので濛を奉じて興復を図るのを恐れ、召し戻した。延徽が兵を引いて北へ退いたので閩軍が追撃して破った。まもなく呉が使者を送って和を求めてきた。
- 十一月、泉州に行幸して皇太后の実家を訪れ、沿海の住民の屋根瓦をすべて粘土で葺いてよいと詔した。
- この年、野生の麂(きょん)が東門に入った。帝は「朕の土地は狭くとも東麂のものにはさせぬ」と言った。当時の閩の言葉では両浙を「東麂」と呼んだのでこう言ったのである。
永和元年(935年)
- 正月丙申朔、大赦して改元した。淑妃の陳氏を皇后に立てた。帝は二度劉氏を娶り、いずれも美人だったが寵愛しなかった。皇后はもと昭武帝の侍婢の金鳳で、帝はこれを寵愛し、その一族の陳守恩・陳匡勝を殿使とした。
- 二月、甘露堂で傾筐の会を設けた。
- 六月、宮人の李春鷰を福王継鵬に賜った。
- 十月、帝はもとから中風の持病があった。皇后は寵臣の帰守明・百工院使の李可殷と密通し、国人はこれを憎んだが誰も口にできなかった。可殷はつねに皇城使の李倣を帝に讒言し、また皇后の一族の匡勝が福王継鵬に無礼を働いた。継鵬はさらに弟の継韜と長く不仲だったので、倣と密かに数人を除く計画を立てた。
- 己卯、帝の病が篤くなり、継鵬は喜色を浮かべた。倣は帝がもう起き上がれまいと見て、壮士に白い棒を持たせて可殷を自宅で殺させた。庚辰、帝の病がやや軽くなり、皇后が訴えたので、帝は病を押して朝に出て可殷の死のいきさつを問い詰めた。倣は恐れて退出し、継鵬とともに皇城の衛士を率いて鬨の声を上げて宮に押し入った。
- 帝は変を聞いて九龍の帳の中に隠れたが、乱兵が刺しても死にきれず、悶えて絶えないので、宮人がその苦しみを見かねてとどめを刺した。皇后・継韜・帰守明・陳守恩・陳匡勝もみな倣に殺された。
- 帝の在位は通算十年。齊肅明孝皇帝と諡され、廟号を惠宗とした。
- 惠宗が没する前、赤い虹が室に入り、金の盆の水を飲ませたところ立ちどころに吸い尽くした。また殿の門に芝が生え、占者は不祥だとしたが、まもなく弑された。
康宗本紀・即位
- 康宗は名を継鵬、惠宗の長子である。惠宗の死の翌日の辛巳、継鵬は皇太后の令と称して監国となり、その日のうちに皇帝に即位して名を昶と改め、先帝に尊諡を奉った。ついで知福建節度事を自称し、使者を送って唐に上表した。領内に大赦し、李春鷰を賢妃に立てた。
- 李倣を判六軍諸衛事とした。倣は弑君の罪があるため常に自ら疑い、多くの死士を養っていた。帝はこれを憂え、拱宸指揮使の林延皓と密かに倣を除く謀をめぐらせた。延皓が偽って倣に取り入ると、倣は厚遇した。
- 十一月壬子、帝が軍に大饗を賜ったとき、延皓は内殿に衛士を伏せ、倣が入ったところを捕らえて斬った。倣の部下の兵は応天門を攻めたが破れず、啓聖門を焼き、倣の首を奪って呉越に奔った。詔して倣の弑君と皇后・継韜らを殺した罪を暴き、内外に告げた。
- 弟の建王継厳に権判六軍諸衛を、弟の継恭に威武軍節度使を命じた。六軍判官の葉翹を内宣徽使・参政事としたが、まもなく直言のゆえに永泰へ帰らせた。
- 十二月、洞真先生の陳守元に「天師」の号を賜った。
- この年、あらためて長楽県を閩県、閩興県を侯官県、侯官県を長楽県と改め、また桃林県を永春県と改め、明威殿を建てた。
通文元年(936年)
- 正月、帝が改元し、賢妃の李氏を皇后に立て、皇太后を太皇太后と尊んだ。
- 十一月丁酉、契丹が石敬瑭を大晋皇帝に立て、天福と改元した。辛巳、唐主が玄武楼で焼身し、唐が滅んだ。国人はこれを聞いて「潞王の罪は天下がまだ聞いていない。我が君はどうなさるおつもりか」と歎じた。
- この年、詔して金銭で馬を購わせ、良馬五頭を得て、金鞍使者・千里将軍・致遠侯・渥洼郎・驥国公の号を賜った。
通文二年(937年)
- 四月、紫微宮を造り、水晶で飾った。使者を諸州に送り、人の隠し事を探らせた。
- 六月、方士が「白龍が夜、螺峰に現れた」と言ったので、詔して白龍寺を建てた。吏部侍郎・判三司の蔡守蒙に賄賂を取って官を除し、その財を献上させた。この月、医工の陳究に空名の堂牒で官職を売らせた。詔して、年齢を偽る者は背を杖打ち、戸口を隠す者は死罪、逃亡する者は一族を処罰するとし、果物・野菜・鶏・豚にまで重い税をかけた。
- 十月、弟の威武節度使・継恭に晋へ上表して嗣位を告げさせ、あわせて都に邸を置くことを請わせた。庚子、齊王の李誥が使者を送って即位を告げてきた。
- このとき国人が建州の茶膏を貢いだ。異香の材を混ぜ金の縷で固めたもので「耐重児」といい、全部で八枚であった。
通文三年(938年)
- 正月己酉、日食。
- 二月、内客省使の朱文進を齊に遣わして即位を賀させた。
- 十月乙丑、弟の継恭を遣わして天和節の進奉と端午節の祝賀として白金五千両を晋に贈り、さらに金器六具、金花細縷の銀器三千両、真珠二十斤、犀角三十株、銀装の交床五十副、象牙二十株、大茶八十斤、香薬一万斤、朱柄で銀を纏いた槍二百条、通箭の柄三万本、五色の桐皮扇・海蛤・麖の靴・細蕉・木瓜などを進めた。
- 十一月、晋は左散騎常侍の盧損を冊礼使として帝を閩国王に封じ、赭袍を賜った。戊申、晋は威武節度使の継恭を臨海郡王に封じた。帝はこれを聞き、進奏官の林恩に、すでに帝号を襲っているとして冊命と使者を辞退する旨を執政に告げさせた。
- この月、諫議大夫の黄諷が妻子に別れを告げてから諫言に入った。帝が杖刑にしようとすると諷は杖を受けず、庶民に落とされた。
- このとき諸州で人口ごとに銭を課し「身丁銭」と称した。民は十六歳から六十歳まで課され、その後、漳州・泉州の二州では米五斗に換算した。江・湖・池・堤にもすべて賦税があった。
通文四年(939年)
- 二月、盧損が長楽府に到着したが、帝は病と称して会わず、弟の継恭に応対させ、さらに中書舎人の劉乙を送って館舎で損を労わせた。損が後日、乙を非難したので帝は怒り、損は帰るまで何も答えを得られなかった。継恭が礼部員外郎の鄭元弼を損に随行させて晋に入貢させた。
- 三月、六宮に三昧の宴を設けさせた。道士の譚紫霄を正一先生とした。この月、宮中に虹が現れた。
- 四月、巫者の林興が「宗室が乱を起こす兆しだ」と神託を伝えたので、帝は興に壮士を率いさせて叔父の延武・延望とその五子を殺させた。内庭に三清殿を造り、宝皇大帝・無始天尊・太上老君の像を鋳た。道士の陳守元の言に従ったものである。用いた黄金は数千斤、日々龍脳や薫陸などの香を数知れず焚き、楼台の下で音楽を昼夜絶やさず、こうすれば大還丹が得られるとした。政務は大小を問わずすべて林興が宝皇の託宣を伝えて決めた。
- 六月、建王継厳の判六軍諸衛を罷め、名を継裕と改めさせ、末弟の継鎔に判六軍を命じ「諸衛」の字を除いた。まもなく林興の詐りが発覚し、泉州に流された。
- 望気者が「宮中に災いがある」と言ったので、乙未、長春宮に移った。
- 帝は夜を徹して酒宴を張り、群臣に無理に飲ませ、酔えば側近にその過失を窺わせた。従弟の継隆が酔って礼を失うとただちに斬った。また猜疑と怒りにまかせて宗室をたびたび誅した。左僕射・平章事の延羲は帝の叔父だったが、狂愚を装って禍を避け、道士の服を賜って武夷山に置かれ、まもなく召し還されて私邸に幽閉された。
- 七月乙巳、北宮が火災に遭い、宮殿をほとんど焼き尽くした。
- もと帝は勇士二千人を募って腹心とし「宸衛都」と号し、拱宸・控鶴の二都より格段に厚く給与と賞賜を与えた。二都が怨んで乱を起こそうとしているという者があったので、帝は二都を漳州・泉州に分属させようとし、二都はいっそう怨んだ。
- 拱宸軍使の朱文進と控鶴軍使の連重遇は、たびたび帝に侮られて内心不平を抱き、常にそれとなく軍を煽っていた。ここに至って帝は重遇に営兵を率いさせて焼け跡を片づけさせたが、犯人が見つからないので、重遇が放火の謀を知っていたのではないかと疑い誅そうとした。内学士の陳郯がその言を重遇に漏らした。
- 閏月辛巳の夜、重遇は宿直に入るとともに二都の兵を率い、長春宮を焼いて乱を起こし、人を遣わして瓦礫の中から延羲を迎え出して万歳を呼んだ。さらに外営の兵を召してともに帝を攻めた。このとき宸衛都だけが防戦し、帝は皇后らとともに宸衛都に移ったが、夜が明ける頃、乱兵が宸衛都を焼いて宸衛都は敗れ、残る千余人が帝と皇后らを奉じて北関を出た。
- 梧桐嶺に至って一行は次第に逃げ散り、延羲は甥の継業に追わせて村の家で追いつかせた。帝はもとより弓が巧みで、弓を引いて数人を殺したが、まもなく追兵が大挙して集まったので、逃れられぬと悟って弓を地に投げた。継業とともに戻り、陀荘に至って酒を飲まされ、酔ったところを縊り殺された。皇后と諸子、継恭もみな死んだ。陳守元は服を替えて逃げようとしたが、やはり兵に殺された。宸衛の残兵は呉越に奔った。
- 重遇は蔡守蒙を捕らえ、官を売った罪を数え上げて斬った。
- 永隆の初め、帝に聖神英睿文明広武応道大弘孝皇帝と諡し、廟号を康宗とした。
- 帝は性格が狂躁で、即位の初めに兵を訓練して呉を襲おうとし、殿の庭の射堋(的の土手)に大きな銅鑼を掛けて衆に示し、「一発で当てられたら江南を平定できるはずだ」と言った。射堋は階からわずか数十歩しか離れておらず、銅鑼も甚だ大きかったので、案の定一発で命中した。側近が声を揃えて「この一矢で天下は定まりました」と賀したので帝は大いに喜び、兵を出して国境まで進めた。呉の人はこれを聞いても罵りもせず、ただ「その大志が気の毒だ」と言うにとどめた。実際はからかっていたのである。